203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』
約束:エピローグ
「尾路山さん、電話ですよ」
文字の羅列を流し見して、だりるいなぁと湯飲みに入ったミルミルをすすりながら書類の整理に勤しんでいると北島さんが受話器を差し出してきた。
「お電話ありがとうございます。【便利屋Weeds(ウィーヅ)】でございます。ええ、はい。この前はどうも……ええ、ええ……はい? ええ、そうですが…………それは、あの、困ります……ええ、ええ……わかりました。少々お待ちください」
俺は電話口を押さえて向こうにこちらの音が聞こえないようにして、隣のデスクに座る北島さんに声をかけた。
「北島さん、北島さん。ちょっといいかい」
「? はい、なんです?」
「あのさ、この前俺の下着の色訊いてきたやつなんだけど」
言ってとんとんと受話器を叩く。すると北島さんの顔が曇った。まぁ、当然の反応だ。普通、変態が二度も電話してきたら受話器を叩きつけて、デパートの電化製品売り場のお世話になるものだろう。平然としている俺が変だという自覚は、実はあったりする。
「また電話してきたんですか? 度胸があるというかなんというか。それで今度はなんて?」
「うん、それがね。近くにいる女性の下着の色を訊いてくれって」
「尾路山さん、あんた馬鹿ですか?」わぉ、年下に罵倒されてしまった。これはいいオモイデにナリソウダ。「暇つぶしかなんだかわからないですけど、さっさと電話切って仕事に戻ったらどうですか!?」
「そうします……ええっともしもし? はい、お待たせしました。それで、残念ながら罵倒で拒否されました。ええ、残念でしたね…………え? また電話していいかって? 駄目ですね。さすがに変態さんと三回も会話するなど、耳が腐り落ちてしまいますよ、ははっ。ああ、そんな泣かないで! 仕事の依頼でしたらいつでもお電話お待ちしておりますから……ええ、構いませんよ。私たち犯罪に関与しないのならば、どんな依頼でもお待ちしております。はい、はい、よろしくお願いします。失礼します」
電話を切るとすぐさま北島さんが食ってかかってきた。さすがに今日のおふざけは度が過ぎたようだ。
「尾路山さん、真っ先に私に下着を訊いてきましたよね? この会社には前田さんも、柿枝さんもいるのに! なぜ真っ先に私!? 一体、尾路山さんは私のことどう思ってるんですか!!」
「ああ、そっちか」てっきりと不真面目な態度を怒られるのかと思ったのだけれど。
「はい!?」
「あーいやいや、なんでもない。何というかさ、いつも俺が電話に出ると北島さんと何かしらのやり取りやってるような気がしてさ、今回も北島さんに声をかけなければならないような気がしたんだよね。にゃん子さんは今給湯室だし、それに……」
言って視線を前方へと移す。
「それに?」
答える代わりにそっと、視線の席に指を差した。
俺の目の前のデスクは柿枝さんの席だ。珍しいことにそのデスクに突っ伏すようにして柿枝さんが寝ていた。頬を腕に押し付けていて、横顔から閉じられた瞼が見えている。寝ていても色っぽいのはさすがと言える。
それを見て北島さんも納得したようすだった。
「珍しいですね。柿枝さんの寝ている姿、初めて見ましたよ」
「丸腹の寝顔は見飽きてるけどな」
左方の奥の社長用デスクにも、突っ伏して眠っているやつがいた。ただし、それは人間というより豚のそれに近い。社長の癖に人材発掘以外の才能がないというのはいかがなものか。この前、調査依頼の担当決めを巡って一日会計事務を丸腹に任せたところ、書類をコーヒー付けにしたあげく、「ごめ、やっちゃった」という一言で済まそうとしやがった。いつか焼いて食ってやろうかと考えたが、脂はのっているがその実態はオッサンだ。リアルな想像を働かせてしまって吐き気を催してしまった。その日は散々だった。
と、給湯室の扉が開く音がした。にゃん子さんが新しいお茶を汲んできたらしい。ちなみに俺の湯飲みにはイチゴ牛乳が満たされているはず。
「あれ、柿枝さんが眠ってるー」
にゃん子さんは物珍しそうに柿枝さんの横顔を覗き込んだ。そんなに近づいたら起きるんじゃないかとハラハラする。
昨日、彼女には出会いがあった。出会いというよりも、あれは再会だったのだろう。再会の相手は泣き叫んで抱きしめるような間柄なのだ、きっと夜通し語り合ったことだろう。今は寝かせてあげたかった。
にゃん子さんは恐れ多くも柿枝さんの頬をぷにぷにして、ご満悦の様子。なんだ、もしかして柔らかいのか? いいなぁ、おれもぷにぷにしたい。したいが、男の、しかもオッサンの俺がそれをやれば間違いなくセクハラだ。なんで俺は男に生まれてきたんだ……。
「なんか、柿枝さんの素顔を覗いてるようですよねー」
俺が禁忌を犯すか犯さないかで悶々としていると、柿枝さんの頬を突きながらにゃん子さんがそう呟いた。その言葉に北島さんも頷いて、
「そうね。水商売の性なのかしらね、常に営業スマイルを貼り付けてる感じ、あったわよね」
「あーわかります、それ。でも今は、何というか自然ですよね」
北島さんとにゃん子さんは、柿枝さんの寝顔を覗きながらそんなことを言い合っていた。
ふむ、自然体の柿枝さんか。
それはきっと昨日の彼女だろうな。
俺がいるというのに、泣き叫んで誰かと抱き合っていたのだ。俺の存在をすっかり忘れていたといった様子だった。あの感情の爆発はきっと彼女の本当の姿なのだろう。すると俺は彼女の本当の一面を目撃したことになるのか。なんだか得した気分になるのは、貧乏性だからだろうか。
「何にやにやしてるんですか、尾路山さん」
訝しげに北島さんが視線を投げかけてくる。俺は、「いや、別に」と適当にあしらって、にゃん子さんから新しい湯飲みを受け取った。
みんなが知らない柿枝さんの一面を知っている優越感に浸りながら、いちご牛乳をすすった。
「そういえば、伊田君はどうした?」
「この前の草むしりの仕事にでかけたときに、前田さんに長時間に渡って無視し続けられたショックで寝込んでいます」
「はは、そうかぁ、可哀想に」
今日も【Weeds】は愉快だなぁ。
作品名:203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』 作家名:餅月たいな