203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』
しかし私はこれからどう行動してよいものかわからない。
私は今日、ついに約束を破棄しようとしていたのだ。彼女はきっと約束を守ろうとしていてくれたというのに。
そして私が今まで約束を守ろうとした理由は、決して純粋なものではなく、もしかしたら彼女にとってはおもりになるかもしれないような、純粋なものではない。そして、彼女にはもうすでに新たな家族がいて、私は姉ではなく、ただの『このみ』なのかもしれない。
だから私はどう話しかければいいのかわからなかった。話しかけてもいいのかわからなかった。家族として接してもいいのか、それとも赤の他人として話せばいいのか、わからない。
しかし、次のみかちゃんの台詞を聞いて、私はいつだか聞いた尾路山の台詞を思い出した。
「このみお姉ちゃん!」
尾路山は、『人間は考えすぎる』と言っていた。
その通りだ。私は考えすぎだったのだ。ぐだぐだと言い分けのようなことを考える前に、私は彼女に言わなければならないことがあった。
いや、違う。そうではない。
私には、言いたいことがあるのだ。
「おかえり、みかちゃん! 会いたかった。会いたかったよっ!」
言い終わったのと、走り出したのは、どちらが先立ったろうか。
視界が歪む。
もう女も年齢も色気や何もかも、全てを放り出して、家族との再会に涙を流した。
みかちゃんが、両腕を差し出しながら走りはじめた。
あと数歩で私は彼女を抱きしめられる。もしかしたら抱きとめられる側かもしれない。
それでも私は姉なのだから、抱きとめてあげたいと思った。
私がお母さんや姉さんたちにそうしてもらったように、抱きしめてあげたいと思った。
それはとても優しくて。
そしてとても力強いのだ。
そしてその瞬間は、私から零れ落ちた一粒の透明な雫が、この空間にわずかな虹色を投じたの同時に訪れた。
作品名:203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』 作家名:餅月たいな