203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』
ビルの壁に押し付けられた私は身動きが取れない。男の荒い息が耳元で鳴り、ビルの間で木霊してもう片方の耳に響いて聞こえて、おぞましいステレオが肌を粟立たせる。
「金出すからさ、いいよね? いいよね?」
男の上ずった声が鼓膜を震わせる。鼓動が跳ね上がる。筋肉が震える。渾身の力をこめても締め上げられた腕は振りほどけない。悲鳴を上げようとすると、片方の腕で口を塞いできた。
男の愉悦に歪んだ顔が間近に迫ってくる。荒い息が顔中に這い回る。
――もう駄目だ。
そう思った瞬間だった。
「あっ、え……ええ!? そ、そそそこにいるの柿枝さんですよね!?」
目を開けて、視線だけで先ほど私がいた方へ視線を移すと、そこにはパーマがかったぼさぼさの髪の毛の男が立っていた。
尾路山が目を飛び出さんばかりに開いて、唖然とした様子でこちらを見ていた。
「あ、んだテメェ!」
私を締め上げる男がいきり立つ。その様子に尾路山が動揺しているのが目に見えた。
しかし尾路山はそこで逃げようとはせず、
「あ、あのさ、何してるのかな君は。あー別にね、怒っているわけじゃないんだけど、その……そう! その女の人ね、柿枝さんっていうんだけど僕の知り合いなんだわ。これから二人でデートだから、ね、離してもらえる?」
なんとも支離滅裂で脆弱な言葉を男に投げかけていた。むしろ怒ってよ、と怒鳴りたいところだが、心が折れそうだった私にとっては彼の存在は救世主のそれだった。
私は視線で助けを求めると、それに気づいた尾路山は一つ小さく頷いてぐっと顔に力をこめると近付いてきた。
男はそくざに身構える。尾路山は私たちの目の前に立つと言い放った。
「それじゃあ僕たちはこるぇで」
噛んでいた。どうしてそこまで人を笑わそうとするのだろうか。しかしそういった間抜たところは彼の天然の性格に由来するもので、故意ではないのだ。尾路山は頬を赤らめながらも凛とした表情を崩さず、私の腕へと手を伸ばした。
その瞬間――、
「っ! ぅ、お!?」
突然、男が尾路山に殴りかかった。私は放り出されて地面に叩きつけられる。肘に強烈な痛みが走ったが、無視して起き上がり尾路山たちを見やった。
尾路山は悲鳴をあげながら、殴りつけてくる男からあとじさりしながら腕を顔の前にだして身を守っていた。一方的だった。かろうじて男の拳を交わしているが、このままでは尾路山が追い詰められてやられてしまう。
何とかしなければ。しかし私に何ができるのか。
私が逡巡していると尾路山に異変が起きた。
尾路山のズボンが足元までずり落ちた。何が何やらわからないが、下着のトランクスの青色が目に入った。
そういえば、と思い出す。そういえば尾路山は夕方になると衣服が乱れるという癖があると言っていた。あの話は本当だったのかと驚く。
そうして私が唖然としていると、事態が急変した。
尾路山がズボンの裾を踏みつけ、足を滑らせた。その瞬間はスローモーションのように見えて、一瞬間のうちに私は危ないと心の中で叫んでいた。
しかし、それは杞憂に終わった。尾路山が転んだ拍子に振り上がった足が、踏み込んできた男の股間を捕らえた。
「ッッ!!? ッッッ〜〜〜〜〜〜〜ァァアアアアアァ!!」
男の声にならない絶叫が路地裏に木霊する。
なんとも言えない終結に、現実世界がスローモーションに見えるという貴重な体験が後味悪く記憶のすみ居座ってしまった。男の痛みは分からないが、伝え聞いた想像を絶する痛みというものを知っていると、その光景は女の私ですら目を逸らしてしまいたかった。
男は尾路山を警戒しながら明らかに無理をした様子で立ち上がると、内股という奇妙な格好で小走りで去っていった。尾路山はというと、後頭部を打ったらしく、頭をさすりながら男の背中を目で追っていた。
「ありがとう、誠二さん。助かったわ」
近寄って、下着を露出している男を助け起こし礼を言った。
尾路山はズボンをたくし上げながら照れくさそうに笑った。
「それにしても、どうしてこんなところにいたの? もしかしてまた道に迷ったのかしら?」
尋ねると、
「ええ、実はですね、そうなんですよ」
清々しいほどにそう言い切った。
「そうなの。そういえば、今日は確か調査依頼が入ってたわよね。その仕事は終わったの?」
もし終わっているのならすぐそこの喫茶店にでも誘うおうかと考えていた。助けてくれたお礼に尾路山が好む甘いものでも奢るのもいいかもしれない。これからずっと私は【Weeds】で働くのだから。そして、とある約束を終えることを話してみようかと思っていた。尾路山なら親身になって聞いてくれそうだ。
しかし尾路山は残念そうな表情で首を振った。
「それがまだなんですよ。この道に迷いこんだのもその仕事の一環でして」
「そう。残念だわ」
言うと、尾路山は不思議そうに瞬いたが、すぐに何か思いついて私に話しかけてきた。
「確か、以前にも柿枝さんとはここら辺でお会いしましたよね? 今回の依頼は人探しならぬ店探しでして。ここら一帯に詳しいのなら協力をお願いしたいんですけど」
「店探し? 地図でもパソコンでも調べられなかったから依頼してきたってことよね。私もここらに詳しいわけではないのだけれど……ちなみに何というお店なの?」
尋ねると、尾路山はポケットからメモ帳を取り出し、その店の名前を読み上げた。
「えっとですね、【ルーフ】っていう店です」
読み上げられたその店名に、はっとする。
「どうやらスナックらしいんですけど、どこで調べても人に訊いても誰も知らないんですよね。ここら辺にあるっていうのはわかったてるんですけどねぇ……って、柿枝さん? どうしました? おーい柿枝さん?」
尾路山が何か言っているようだが、私の耳には届かなかった。
尾路山の後ろ、この路地の奥の角から一人の女性が覗いていた。彼女はきっと尾路山の仕事の依頼主で尾路山と一緒に行動していたのだろう。彼女は、それはおそるおそるといった様子で、しかし私と視線が合うとその体を全てさらけ出して私と対峙した。
色の無いモノトーンの空間で、その女性だけは色鮮やかに見えた。この空間に必要なはずの色を全て持ち合わせたような、この空間に必要な色を運んできてくれたような。その彼女の存在感は私の心の中にもあった。
その時、雲が割れて陽が差した。陽の光は路地裏を照らし出し、この路地裏の空間に色をもたらす錯覚をする。地面のコンクリートは照らし出されることで凹凸の影を作り、靴に踏みつけられて灰色になっている部分と、えぐられて影になっている黒い部分があることを私は知った。ビル壁はのっぺりとした灰色ではなく、ところどころ汚れていて、薄い灰色から濃い灰色へのグラデーション模様になっている部分もあった。
味気のない光景には変わりはない。しかし向こうに立つ女性が私の心を満たして、その存在感が目の前に広がる風景を彩っていた。
約束は、果たされたのだ。
女性は――大人になったみかちゃんが、【ルーフ】探し、私に会いに来てくれた。私の妹がやってきた。十数年、いや十三年の歳月を経て再会を果たした。
作品名:203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』 作家名:餅月たいな