203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』
「そう、みかちゃんね。可愛らしい名前ね。じゃあみかちゃん、大事な話をするから聞いてちょうだい」
ふと、自分の幼少期を思い出した。
私は幼少の頃、両親を事故で亡くしている。みかちゃんの年よりももっと幼い頃の話だ。
私の両親は典型的な交通事故で亡くなったらしい。角を曲がってきた車と衝突したのだそうだ。
らしいというのは伝え聞いて知ったからで、私自身は覚えていない。その話をお母さんから聞いたときは、そうだったのかと薄っぺらな反応をした覚えがある。しかしお母さんが言うには、物心つく前の私は本当の両親を求めていつも泣いていたという。
記憶が薄れるというよりも削れてなくなったような気配が頭の奥にある。体が心を守るために悲しみを無理やり無かったことにしようとした後だと思う。今はそれもなくなったが、多感な頃はそれに悩まされて病院に通うことも考えた。結局は行かなかったけれど。
それでも私は真っ直ぐに生きてこれたと思う。曲がって砕けてしまいそうだった心を、お母さんと姉さんたちが支えてくれたからだ。
私の周りには、私を支えてくれる人がいた。しかし、みかという少女にはきっといないのだ。父親がいないのは私も同じだ。しかし私にはお母さんがいた。お母さんには夫はいなかったが、それを考えさせないほどに私の心を満たしてくれた。
だから、私は少女が何を必要としているか、何をしてあげればいいのか、何をしてあげなければならないかがよくわかる。過去の私を思い出し、私を支えてくれた人たちを見習えばいいのだ。
私は少女の心にそっと手を差し伸べた。
「みかちゃん。あなたのお母さんは死んでしまったのよ。もう帰ってこないし、二度とお話できないの」
「なに言ってるのよ! あっちにたくさんいるじゃない」
「違うわ。みんなあなたのお母さんではないの。ねえ、みかちゃん。あなたのお母さんの名前は?」
「え? だからぁ、あやか」
「そう、あやかさん。あやかさんがあなたのお母さんなのよ。そして、あなたのお母さんのあやかさんは何人いたの?」
「なんにん? ……え、えっとお母さんは一人だよ?」
「そう一人。あなたのお母さんはたった一人だけなの」
「違うよ。あっちにお母さんがたくさんいるよ? あ、でも……お母さんは一人だけ?」
「そうよ。あなたのお母さんはあやかさんの一人だけ。あっちのフロアにいる人の中で、あやかという名の人はいないの」
「あ……や、やだ……聞きたくない……」
突然、大きく左右に首を振った。何かから逃れるように、真実を直視することを拒否するように。
きっと彼女の心は悲鳴を上げているに違いない。耳を澄ませば聞こえてきそうだ。彼女の心を抉るような仕打ちをすることで、私の胸も張り裂けそうに痛い。しかしここで止めるわけにはいかない。今の私があるように、少女にも手を差し伸ばさなければならない。
そうでしょう? お母さん。この場にいない母に、問いかけた。
「あなたのお母さんは、あなたの大切なお母さんはたった一人だけなのよ。思い出して! あやかさんは、お母さんはどんな顔だったの? どんなことを話していたの? どんな髪の色だった? 瞳の色は?」
「お母さん……お母さん、は……」
少女の目じりに涙が浮かぶ。本当は心の底では理解しているのだ。しかし、お母さんは死んでしまってもう二度と会えない。その衝撃に耐えられなかった彼女の心は自衛に走ったのだ。自分の中で『母親』の定義を角度を変えて見ることで少女の心は逃げたのだ。
真実と向き合ってしまえば心が折れてしまうから。支えるものが何もないから。
「だって、お母さん……死んじゃったって……」
「…………」
少女の瞳からぼろりと大粒が流れた。
「死んじゃったら……ソウシキで燃やすって……」
「…………」
「……でも、お母さんはあっちにいっぱいいて――あ、」
そっと抱き寄せた。
抱きしめて頭を撫でてあげる。
「あなたのお母さんは、死んでしまったのよ」
「…………あ、ああ」
「あやかさんはたった一人だけなの」
「……ああ……うあ」
「他にお母さんがいっぱいいるだなんて寂しいこと言わないで。あなたのお母さんを思ってあげて。あなたのたった一人のお母さんのあやかさんを思ってあげて」
「ああ、うあああああ――――!!」
カップが割れる音が響き、それに続くように雷鳴のような鳴き声が私の胸のうちで弾けた。足元には一口もつけられなかったココアが広がっていく。
少女の拳が振り下ろされた。小さな拳は私の肩のあたり、痺れを起こした。
もう一度振り下ろされた。あまりにも弱々しくて、叩かれた感覚がない。
なんて小さな体だろうか。子供の体はなんて小さいのだろうか。昔、私もお母さんにこうして抱きしめてもらったことがある。そのときの私もこんなに小さなかったのだろうか。こんな小さな体に人一人の死は大きすぎた。それを身を持って知っている。
「みかちゃん、聞いて」
「ああああ!! うああああ!!」
とすん、とすんという叩かれる音が続く。
「あなたは決して一人じゃないからね」
「うああ、あああ――――!!」
「私がいるからね。ここに私がいるからね」
「……うあ、ああ……」
泣き止む様子はなく、聞こえているのかわからなかったが、私を言葉を紡ぐ。かつて私のお母さんがそうしたように。私もそれを口にする。
「あなたの本当のお母さんになれるわけではないけれど、私とあなたは家族になれるのよ。血も繋がっていなければお役所の契約書もないけれど、家族になれるの」
「…………」
「フロアにいる姉さんたちみんな私の家族。苗字は全く違うけれど、もっと別のところ、心の底で繋がっているわ。だから、あなたが望むのならば私たちがあなたの家族よ。あなたは一人じゃないから、私たちが支えてあげるから、今はお母さんを思って泣きなさい」
「――――――っ!!」
再び雷鳴が私の胸の中で鳴った。
今度は少女の拳は私のドレスの裾を握って離さなかった。私の胸元は水分を多量に吸って重くなっていく。それでも私は少女を手放すことができず、ずっと抱きしめて離さなかった。
ふと視線を感じて顔を上げると、フロアと休憩室を分ける扉の隙間から、姉さんたちとお母さんが覗き込んでいた。視線が合うと、姉さんたちはどこか不敵な笑みを浮かべ、お母さんは私に微笑みかけると、一度、頷いていた。
その日、みかちゃんは泣き疲れて寝てしまい、私とお母さんの家に連れて帰った。
朝方に警察がやってきた。子供を捜していると聞いて、その子の特徴などを聞いてすぐにみかちゃんのことだとわかった。昨日のお客の一人がみかちゃんの自宅の近くに住んでいて、みかちゃんの自宅に滞在していた親戚がみかちゃんの失踪に気づいて周辺への聞き込みを行い、そのお客の家に訪れたらしく、みかちゃんの特徴を聞いたお客は私が見知らぬ少女を連れていたという話を伝えたのだという。そういった経由でみかちゃんの所在を求めて警察は私たちの自宅へ訪れてきたらしい。お客がなぜ私たち自宅の住所を知っているのかは謎だった。
可哀想だが無理して起きてもらい、みかちゃんは警察に手を引かれて自宅へと帰って行った。寝ぼけ眼でいつまでも私を見ていた。
作品名:203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』 作家名:餅月たいな