203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』
休憩室の椅子に座らせてようやく気づいたのだが、少女は薄着だった。白い半袖のTシャツに寝間着か何かと思われる薄い綿のズボン。夏とはいえ夜の、しかも雨が降っている日の外はそれなりに冷え込む。化粧台の引き出しからタオルを取り出し、ついでに私のワイシャツも用意しておく。
汚れてしまった少女の服を脱がせて体に付着している水気をタオルで拭き取り、ワイシャツを着せた。ワイシャツ一枚で体一つをすっぽりと包みきってしまった。
「寒くない?」
「うん、寒い」
暖房は効いているはずだが、ずっと雨に打たれていたのだ、体が冷え切っているのだろう。カーディガンを上に着せてあげた。
「どう? 暖かい?」
「ココア飲みたい」
なかなか話が噛み合わない。しかし子供らしい無邪気さというのか、我侭というのか、自分も昔こうだったのかと思うと可笑しくなる。
「しょうがないわね。今用意してあげる」
フロアのほうからココアパウダーを頂戴してきて、休憩室の隅にある小さなカセットコンロで作ることにした。
小さな鍋に粉類を入れ、少量の水で練りながら少女に尋ねた。
「ねえ、あなたはこんな時間に何してたの?」
またちぐはぐな会話になってしまうのかという危惧があったのだが、意外なことにすんなりと少女は答えた。
「んとね、お母さんを探してた」
お母さん。
そういえば先ほどからそればかり口にしている。
お母さんとはぐれてしまったのだろうか。一瞬そんなことを考えたが、こんな時間に街を歩き回っていたというのはどうも不自然と思った。
「お母さんは、今どこにいるの?」
真夜中に寝間着姿の子供を連れ出すなど、非常識にもほどがある。幼い少女が、真っ暗闇を一人で歩きまわるなど、きっと大きな勇気が必要だったに違いない。そうせずにはいられない理由があったに違いない。
「お母さんは、あっちにいっぱいいた」
妙な言い回しでそう言った少女が指を差したのはフロアの方だった。閉店間際だというのにお客の下品な笑い声が聞こえてきている。
「えっと、お母さんの名前は?」
「あやか」
それを聞いて、やはり少女は勘違いをしていると確信した。姉さんの中に、あやかという名を、本名か源氏名のどちらかに持っている人はいない。姉さんたちの全てを知っているわけではないけれど、もし子供を作ったのならきっと気づいていただろう。それぐらい長い付き合いなのだ。
と――、
「あたしね、お母さんの顔覚えてないの」
突然、少女が語りはじめた。
「お母さんね、いつも家にいなかったから。みずしょうばい? っていうのをやってて、夜はピンク色のお店で働いてて、お昼はいっつも寝てた。朝起きるとお母さん横で寝ててね、学校から帰ってくるとお仕事にでかけてた」
想像するに、私と同じような生活をしていたのだろう。完全な夜型で、昼間に就寝していたのだろう。夜仕事にしては出勤が早いのは、もしかしたら他にも別の仕事をしていたのかもしれない。経済事情が芳しくなかったのだろうか。
「ある日ね、お母さん動かなくなっちゃった。お布団に入ったまま。それでね、救急車呼んだんだけど、お母さんを運んでどこかへ行っちゃって、それっきり帰ってこないの」
牛乳を注いで鍋の中をかき混ぜていた手が、止まる。
「……あなたは病院に行かなかったの?」
「行かなかったよ。電話でね、親戚の人が行くなって言ってたから。もう手遅れだからって」
「それじゃあその後は……」
「知らない。親戚の人があたしに病院に行っちゃダメだって言うの。お母さんはお仕事に行ってるから、行っても無駄だって」
「……お父さんは?」
「いないよ。リコンしたから」
こともなげに、そう言った。
出来上がったココアを注いだマグカップを手渡す。そおっとそれを受け取った少女は、嬉しそうに微笑んだ。
「お母さん、いつまでたっても帰ってこないんだぁ。親戚の人はね、あさって葬式するからその時にお母さんに会えるって言ってた。だけど久しぶりにお母さんが作ったハンバーグ食べたくなったっから探しにきたの」
ココアの水面を見つめながら、少女は呟くように言った。あどけない表情には悲しみも怒りもなく、そこにあるのはココアの香りに嬉々とした感情だけだった。母親が死んだことに気づいていない様子のようにも見えるけれど、どうなのだろうか。見たところ少女は十歳ぐらいに見える。それぐらいの年だと勘付いてもおかしくはなかった。だとすれば、少女の言葉には別の意味が含まれているのだろうか。
少女の心が見えなくて、私はどう声をかけたらいいものかわからず、黙り込んでしまう。
「でも見つかってよかった。ここにはたくさんお母さんがいるんだね。驚いちゃった。これで寂しくないね」
少女はとても幸せそうに笑った。
それを見て、胸が締め付けられるように痛んだ。
少女の笑顔の奥深くに少女の中のとても深刻なズレがあることに気がついたのだ。
先ほどから少女が言う『たくさんのお母さん』。これはどういう意味だろうかと先ほどから不思議に思っていたのだが、今の少女の笑顔を見てようやく理解した。
きっと、言葉の通りなのだと思う。少女の中では、私やフロアの姉さんたち、そして私のお母さんを含めた全員が少女の『母親』なのだ。それだけではない。きっと他のスナックに連れて行けば、そこにいる女性全てにお母さんと呼びかけるだろう。
「ねぇ……あなたのお母さん、きっと、死んでしまったのよ」
「知ってるよ。ソウシキって死んだ人を焼くんだよね。学校で習ったもん、それぐらい知ってるよ」
それを聞いて確信した。平気そうに見えて、少女はかなり不安定な状態なのだ。
少女は母親の顔をよく覚えていないという。そして母親は水商売をしているとしか覚えていない。想像から脱することはできないが、少女の母親は少女が物心つく前からそういった職業についており、まともに顔を見せ合って会話するようなこともなかったのだろう。そんな霞のような母親のそばで生きているうちに少女の中で『水商売をする女性』と母親がイコールで結びついてしまったのではないだろうか。三つ子の魂百まで、と言ったら語弊がありそうだけれど、近いものがあるのではないだろうか。
少女ぐらいの子が水商売人に接することは珍しいだろう。それこそ家族がそうでなければ、水商売の世界を知ることはないだろうし、ホステスの姿を目の当たりにすることは滅多にない。だからこそ、男を誘惑するための華美なドレスや艶のあるメイクをした女性、つまり私やフロアにいる姉さんたちや私のお母さんは、少女の中だけの『母親』の定義に当て嵌ってしまったのではないだろうか。そういった格好をしている人は自分の母親だけだと思い込んでいる。だからこそ、『お母さんがいっぱい』という台詞が出てきたのだろう。彼女は母親の死を理解しながらも、受け入れられないがために、心を守るために、狂いが生じはじめている。母親を失ったことを心で拒否しながらも漠然と広がる寂しさを埋めるために、母親が多数いることに疑問を持たない。
「遅くなってしまったけれど、あなたの名前はなんていうの?」
「みか」
作品名:203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』 作家名:餅月たいな