203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』
約束:(1)
ある少女との約束を結んだあの日に思いを馳せて目を瞑っていると、遠くに人が歩く音を聞いた。この裏路地への入り口あたりからだ。こんな寂れた場所へは来ないだろうと踏んでいたのだけれど、その足音は方向を変えると、この路地に入り込んできた。
喫茶店が目的地だろうか。そう考えた私は足音の主を確認するまでもないかと思い目を瞑ったままだったのだが、不意に私の名前を呼びかけたその声に聞き覚えがあったせいで、再び退廃的なモノトーンの世界に目を開けなければならなくなった。
「やあやあ、柿枝さんじゃないですか! こんなところで奇遇ですね」
「……あら、本当に奇遇ね。誠二さん」
私を呼びかけた男は、パーマがかった白髪まじりのぼさぼさの髪の毛を揺らしながら、救いを見つけたかのような情けない笑顔を向けていた。
現在、私は【便利屋Weeds(ウィーヅ)】という会社に勤めている。名前に冠された通り便利屋で、犯罪に関わらない依頼であれば、そのほとんどを引き受けるような奇妙な会社だった。尾路山は【Weeds】の会計係だ。天然パーマの頭といい言動といいまるでギャグ漫画から抜け出てきたような男だった。それを証拠に、このモノトーンの世界に私が着ているドレスのように彼も色を投じているのだが、色を発しているそれが、白を基調とした水色のストライプのネクタイ、それと黄色を発しているのが股間部分の開かれたチャックの間から見え隠れしている下着なのだった。
「あら、誠二さん。今日は……セクシーなのね」
艶のある声を意識的に出して、絶妙な間を置いてそう言った。姉さんたちから学んだ男を誘惑する一つの術だ。
忘れないように。術も姉さんも忘れないように、私はいついかなる時でもホステスとしての心意気を実践する。いつになるかわからないルーフの再興を思って私はそっと、組んでいる腕で胸を押し上げた。
「あー! なんてこった、いつから開いてたんだろ……あーでも、閉まんねぇなぁ……」
彼は慌ててチャックを閉めようとするが、裾を噛んでしまっているのかチャックは上がりそうになかった。前かがみになったその拍子に、つっぱたせいだろうか、スーツの上着の前ボタンが弾けて取れた。彼は決して太っているわけではなく、むしろかなりの痩せ型なのでスーツの端々に余裕があるはずなのだけれど、どういうわけかボタンは勢い良く弾け飛んだ。
ボタンを拾うため尾路山は屈んだのだが、起き上がるときに地面に向かって垂れていたネクタイを踏みつけてしまったらしく、いわゆる天然パーマと言われるその頭から地面に追突していた。
そのまま勢いに乗って一回転。でんぐり返しを決めた尾路山は、すっと立ち上がると何とも気まずそうに苦笑した。
「いやーなんというかね……俺ってさ、夕方五時を過ぎると不思議なことに服装が乱れるんですよ。何度手直ししてもすぐに駄目になる。最近は超能力か何かじゃないかと思っているんですが、どうでしょうかね?」
照れ隠しからか、そんな訳の分からない問いを投げかけてくる。
しかし私は、路上ででんぐり返しを決めた中年の男を目撃した衝撃によって腹が捩れており、それどころではなかった。
尾路山は営業の帰りに道に迷ってしまい、携帯で同僚に連絡を取って近くの駅を教えてもらったのはいいけれど、その駅までの道順がわからなくなってしまい、大体の方角を決めて進むうち路地に入り込んでしまい、私と鉢合わせたのだそうだ。
「それならもう一度連絡すればいいじゃない」
「電池切れちゃった」
どうやら踏んだり蹴ったりだったようだ。
私たちは会社に戻るべく、喫茶店を後にして駅へと向かっていた。路地を抜けて大通りに出ると、一つ一つの物体の色の濃さに目が眩む。まるで先ほどいた空間だけ世界から隔離されて別の世界に捨て置かれているかのような錯覚を起こす。遠くの空にぽっかりと開いた雲の隙間から太陽が覗いていた。
「そういえば柿枝さん、なんであんなところに突っ立ってたんですか?」
駅前のロータリーに沿って歩いているとき、唐突に尾路山が尋ねてきた。
「そんなかしこまらないで、ネネって呼んでいいのよ」
「またそれですか。一体全体どこにネネの要素が柿枝さんにあるんですか」
尾路山はからからと笑った。
彼が言っていたとおり、私が直してあげたネクタイも服装も数分も経たず崩れてしまっていて、なぜかそれを見ると先ほどのでんぐり返しを思い出してしまって私もつられるように笑ってしまった。
「今日はよく笑いますね」
「そうかしら。私はよく笑っていると思うけれど」
「それは営業スマイルでしょう?」
正直に言って、驚いた。何度も練習した笑顔は、私のルーフでのホステス時代の最大の武器だった。お母さんからも姉さん達からも絶賛された笑顔が本物ではないと言われて、悔しさが浮かぶ。
「……なんでそう思うの」
「いやだって、今日見た笑顔は今まで見た中で一番素敵でしたから」
言って尾路山は髭をごしごしとしごいて顔を赤らめた。それから微笑を浮かべて「くさいですね」と照れた。
「ふふっ、そうね。かなりくさかったわ」
ですよね、まいったなぁ、と俯く彼の横顔を尻目で窺いながら、私は内心動揺していた。直接的な物言いをする男だと知ってはいたけれど、今の台詞は心の底を強く突いた。もしかしたら私も顔が赤くなっているかもしれない。指摘されたら今日の気温のせいにしようと思う。
「あーっと、それでなんでまた喫茶店の前に?」
気まずさからだろうか、再び尋ねてきた。
そのことについて、私はあまり話したくなかった。尾路山のことは嫌いではないし、仕事仲間以上の関係でありたいとも思う。友人とかそういう意味合いで。
しかし、あそこにいた理由を説明するには、私という人間を構築する大事な部分を晒さなければならないと感じるのだ。スナックで働いていて、今現在便利屋に舞い込んでくる雇われママの募集の依頼をこなしている人間としては、お客の好みに合わせて皮を被ることが癖になっている。そのせいか、自分の素顔を晒すことは躊躇われた。
そんな私の心情を察したのか、
「あ、あの言いたくなければ、その……うん……」
何とも歯切れの悪い文句を尾路山が口にした。
その時の尾路山はまるで子供が悪いことをして怒られたときのような表情でいて微笑ましく、気づけば、私はつい口から言葉を零していた。
「約束が……あるの」
「……約束ですか」
尾路山が嫌らしく笑う。小指を突き出して、「これですか?」と尋ねてきた。先ほどの少年の面影は消えうせ、髭面の中年に成り下がっていた。
「違うわ。約束の相手は十歳ぐらいの少女よ」
そうですか、と特に残念そうでもなく彼は相槌を打った。小指を突き出しておきながら、彼はそんなに色恋沙汰に興味はないようだった。
「あの喫茶店があった場所に、昔【ルーフ】てスナックがあったの。疲れた方のために、雨宿りのために、行き場所の無い人のために安らげる『屋根』のある空間を作りたいという意味合いよ。私のお母さんがつけた名前」
「へぇ、お洒落な名前ですね。スナックってもっと野暮ったい名前つけるイメージがあったんですけど」
「例えば?」
「スナック竹山とか」
作品名:203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』 作家名:餅月たいな