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203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』

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 彼はいちいち私の笑いのツボを突いてくる。お客を楽しませるのが私の生業のはずなのに、尾路山が相手では敵わない。
「名前だけじゃなく店内だってお洒落だったのよ。時代の先取りというのかしら。スナックとして営業していたけれど、実際はクラブのような落ち着いた空間だった」
 従業員は私を含めた五人。お母さんと雇われていた三人の姉さん、そして私。たったの五人で営業していたせいで、お客からは引っ張りだこで、毎日が忙しかった。 
「そこで働いたある日、少女に出会ったの。雨が降っていた日だったわ」
「さっき言ってた約束を結んだ少女っていうのが」
「そう、その子」
 少女の顔が脳裏をちらつく。
 駅構内に入り、急に辺りが騒がしくなったなか、私はぽつりと呟くように尋ねてみた。もし聞こえなかったらそれでもいいと思っていたのだが、幸か不幸か、尾路山には聞こえたようだ。
「ねぇ、誠二さん。約束に期限ってあるのかしら」
「約束に、期限ですか? 哲学か何かですか?」
「いえ、そのままの意味で」今度は聞こえるように声を大きく出した。「十数年も経った今も約束を守りたいと思うのは、おかしいかしら」
 しばらく考える間があった。それともホームへ向かう階段の傾斜がきついため息が上がっているのかもしれない。階段を昇りきって、ホームの淵に描かれた青色の線の前に二人並んで立った後、答えが返ってきた。
「約束に期限なんてないですよ」
「え?」
「正確に言うと、期限っていう概念を約束に当てはめるのがおかしいんですよ。だってそうでしょう、柿枝さんが言ってる約束っていうのは口約束のことですよね? そんな曖昧な契約なんて自己満足みたいなもんでしょう。約束を交わした時点である程度満たされていて、満たされた物事って大抵すぐに忘れてしまう。どちらかが忘れてしまっても、覚えていたほうだってある程度満足している場合が多いから許せる場合もある。そうすると約束は果たされなくとも消化されてしまう。だけど約束は約束だと、義理堅いのかしつこいのか、そういう人もいて、忘れてた片方に約束を思い出させて納得させることができれば、その瞬間から約束は復活する。両人とも忘れていて、ふとしたきっかけで、どちらか片方か両人ともに思いだし、終わってしまったように思えた約束をその瞬間に復活させることもできる。そう考えると、約束は一つ繋がりで存在するものじゃあない。期限なんて言葉を約束に当てはめるのはおかしいですよ。まぁようするにですね」
「ようするに?」
「考え過ぎってことですよ。人間は考えすぎる。俺の大好きな作家の言葉です」
「作家がそう言ったの? 考えることが仕事なのに?」
「そうなんですよ。おかしいでしょう?」
 尾路山はおかしそうに笑う。しかし、自分が喋った長い説明の全部を否定したことに気づいているのだろうか。
「約束自体に期限が組み込まれていないのなら、自分で期限を設ければいいんじゃないですか? 結局は自己満足で始まったことですし、約束した片割れが忘れてるとか、いなくなってしまって約束を果たせなくなって迷っているなら、自己満足で終わらせてしまっていいと思います。一度終わらせたとしても、もう一度復活させることも自己満足の範囲ないでできるんですから」
 電車がホームに進入してきた。風圧が尾路山のぼさぼさの頭を揺らし、私の長い黒髪は梳かれるように横へと流れた。
 それと同時に、胸の引っ掛かりが吹き飛んでいくような気がして、
「ありがとう、誠二さん」
 しかしその言葉は、電車のブレーキ音に重なってしまい聞こえなかったようだ。
 電車に乗り込む尾路山を追って、私も足を前に踏み出した。