203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』
近くて見えぬは睫:プロローグ
たくさんあった書類の整理が終わり、窓から外を覗いて空の橙色と藍色のグラデーションを見やって感慨に耽っていると電話が鳴った。
「お電話ありがとうございます。便利屋ウィーヅでございます。……はい? 色、ですか? えっと、青色ですよ。はい、はいそうですかー。それではー」
おざなりに返事を返して受話器を置くと、隣のデスクに座る北島さんが湯飲みを口元に持っていきながらのんびりと声をかけてきた。
「尾路山さん、何の電話だったんですか?」
「あーうん、パンツの色聞かれた」
「ぶっ!?」
汚いことに北島さんは茶を噴き出した。噴き出された茶は綺麗に霧状になって霧散していったが、やはり汚いことには変わりない。
「お、尾路山さん。それ、ただのイタズラ電話じゃないですか! 何でわざわざ答えるんですかっ!」
「それもそうだねぇ。あ、にゃん子さん、今日は俺コーヒー牛乳で」
「ちょっと、無視しないでくださいよ!」
喚く北島さんをどうどうと宥めて(逆に興奮した)、のんびりと本日の会社内を様子を眺めてみる。
フン、と鼻をならしてふて腐れている北島さんに、いつも通りお茶だししているにゃん子さん。目の前のデスクで雑誌を流し読みしている柿枝さんの他には俺しかいなく、オフィスは閑散としていた。小さな建物だが、立った二人いないだけでももの寂しい。
「今日は伊田君もいないのか。何か依頼でも入ったの?」
コーヒー牛乳が注がれた湯飲みを受け取りながらにゃん子さんに尋ねてみる。すると栗毛色のポニーテールが揺らして振り向いた。相変わらずリスっぽい。にゃん子なのに。
「伊田さんは依頼があって今外に出てますよ」
「へぇ」このコーヒー牛乳、もうちょい甘くてもいいかなぁと思いつつ、「どんな依頼入ったの?」
「私も詳しくは知らないんですよ」
にゃん子さんのお盆を抱きしめるように持つその格好は、種か何かを大事そうに抱えている小動物を連想させる。
と、ぼんやりにゃん子さんが本当に猫だったらよかったのになぁモフモフできるのになぁ、と不届きなことを考えていると北島さんがにゃん子さんの言葉を引き継ぐように口を開いた。
「伊田君なら浮気調査ですよ。昨日、尾路山さんが営業回りで出回っているときに依頼がありまして」
「へぇ珍しい依頼だね」
そういえば昨日の営業回りは道に迷ったりしたおかげでいつもより遅く帰社したんだった。その時、伊田君がいなかったのは依頼主にでも会いに行っていたのかもしれない。
「浮気調査ねぇ。探偵社に行けばいいのに」
言いながら、ふと俺の住むハイツがある町の探偵事務所を思い出した。名前は何だったか思いだせないが、初めて本物の探偵事務所を見るのは初めてで、発見した時は人知れず興奮していた。コロッケ屋の二階にあり、あのサクサクの衣の感触は未だに俺の脳内で保管されている。ビーフコロッケが絶品だった。……あれ、何の話だっけ?
「料金が高いからじゃないですか? 探偵に頼らなかったのは」
「いやいや、ウチだってそれなりに値が張ると思うけど。基本的には一時間三千円だし」
「何言ってるんですか! ある興信所なんかは一時間当たり二万とか取るんでよ!」
「マジ!? そう考えると便利屋ってのは破格だな。あっ、でも待てよ」
机から社の料金表を取り出す。浮気調査は『応相談』となっていた。
「ということは、ウチもそれなりの料金で引き受けたんだろうな」
「あら、それじゃあ」柿枝さんが雑誌から顔上げた。「昨日社長が一々(一時間千円)で受けたって言ってたのはなんだったのかしら」
「それはつまり、サービスしたってことでしょうけど……」
社長がそういうことをするのは非常に珍しいことだ。なぜサービスしたのか。なんとなく想像はつくが一応訊いてみる。「もしかして依頼主って、若くて綺麗でギャルっぽい人?」
すると、三人ともきょとんとしてマジマジと俺を見つめてきた。
「そうそう、よくわかりましたね」
どうやら当たりだったらしい。あのブタ野朗……。
と、そうこう話あっているうちに、入り口の扉が開いて丸腹と伊田君が入ってきた。丸腹には軽蔑の視線を送って怯えさせたあと「な、なんだよ尾路山? 俺は男の気はないぞ?」、伊田君に視線を向け――そのボロボロの有様に驚いた。
「ど、どうしたの伊田さん!?」
にゃん子さんが驚いて尋ねると、伊田君は相好を崩して、
「これはね、あれっすよ! 男の勲章ってやつっすよ!」
と、誇らしげに言うのだが、「あ、十円玉落ちてる。これ誰のですかー?」とにゃん子さんに無視されて、彼の背後に灰が降っているかのような寂寥感が漂った。にゃん子さんにとっては伊田君のボロボロの真相よりも十円玉の持ち主探しのほうが意義あることなのだろうか。というか、にゃん子さんは伊田君にだけ冷たすぎる。なんでだろう……かわいそうに、伊田君……。
「おっし、会議始めるぞ」
にゃん子さんが今やってきた二人にお茶を出し終えると、丸腹が集合をかけた。全員自席に着いて、丸腹に注目する。伊田君だけは丸腹に無理やり座らされていた。
「おい丸腹、会議つっても依頼は入ってないぞ」
俺が言うと、丸腹は「それはわかってる。今日は浮気調査の件で、みんなで相談したいことがある」とやたらと皺の多いしかめっ面でいった。かわいくないブルドッグだ。
「そっか浮気調査で出張ってたんだったな。それでその浮気調査ってのはいつまでやるんだ?」
「浮気調査はもう終わったよ。即時解決がウチのモットーだからな」何だそれ初耳だぞ。「でもま、彼を見てくれ」
そう言って丸腹が指差したのは伊田君だった。にゃん子さんの無視がトドメになったようで、真っ白になったどこかのボクシング選手のようだった。
「伊田君がどうしたっていうんですか?」北島さんが尋ねる。
「見てわからないか?」
「はぁ……ボロボロですけど」
「もしかして」柿枝さんがはっとした様子で顔をあげた。「調査対象に気づかれちゃった?」
「まっ、そういうことだ。尾行しているのがバレてボコられた」
燃え尽きて灰のようになっている伊田君の変わりに丸腹が答える。伊田君は見た目がアレだが(金髪モヒカン)デリケートな心の持ち主だったりする。世紀末の世界だと、老人から種籾を強奪してそうだけど。
「それで相談って?」
俺が促すと、丸腹は顎肉に数段の溝を作り出しながら頷いた。
「うむ、今後の調査業務は誰に指揮ってもらうか、ということだ。伊田君はもともと調査業務の担当じゃないし、今日のこの様子を見ると向いてないんだろう」
作品名:203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』 作家名:餅月たいな