珈琲日和 その18
気が違ったように頭を両手で抑えて誰にともなく泣き叫び訴える女性に、尚も優しく諭すように健三郎先生は鼻毛を弄りながら女性の背後から語りかけるのを止めませんでした。不思議な事には女性は決して背後を振り返ろうとはしないのです。
「なら、自業自得だ。そこまでしたのなら、もう腹を括るしかないだろう。相手はどう思っておったんかは知らんが、少なくともお前さんは、相手を親友だと思っておったればこそ自分の出来る最大限で相手を助けてやりたかったんだろう。気持ちがわからんでもない。だがな、そこで何より大切なのは腹を括る事なんだ」
健三郎先生はいつになく堂々として諭すような調子で、更には饒舌で、僕は何も言えずに聞き入っていました。
「お前さんは自分の先の未来等微塵も考えもせず、ただ困っている相手を前にして助けたいと純粋に思って実行したつもりでいるんだろう。だがな、誰かを助けるっていうのは己に責任が生じるもんだ。あまり知られていないようだが、特に金銭が絡む事例ではな。生じた責任共相手の人生を背負う気持ちがなけりゃ、到底誰かを真に助けてやる事なんてできゃしないのさ。儂の憶測が正しければ、お前さんはかなりの額の金を相手に貸したんだろう。それでもって、相手が蒸発しちまって、下手したら金貸しなんかから連絡が来たりして内心かなり焦っているんじゃないのかね? 自分の選択は間違っていたのかもしれないと困惑しているんじゃないのかね? そして、その問答に心底疲れてしまっている」
女性は大きく目を見開いて健三郎先生の方を初めて振り返り、しばらく先生を凝視していましたが再び力なく項垂れて、はいと蚊の鳴くように答えました。僕はというと、このやり取りを前にただ突っ立って聞いているより他に出来ませんでした。
「相手の人生に金を貸すという事で関わってしまったお前さんは、本来は最後まできっちりと関わらなけりゃいけない。それなのに、相手がドロンしたとなると、増々不信感が募っちまった。貸した金はこの際諦められたとしても、その時の相手の言葉や気持ちまで疑い出した己自身に嫌気がさせているんじゃないのかね? そして、金を貸した愚かだったかもしれない自分自身に」健三郎先生の語り口は責めるでも冷酷にでもなく、どちらかと言えば慈悲深く優しくさえ聞こえました。
「・・・間違っていたとしてもそう思いたくないんです。そう思ってしまったら、彼女との思い出も彼女自身も何もかもを否定してしまいそうで。そうしてしまう自分がなんだか辛くて、だからずっと誰にも言わずに自分の中に閉じ込めてきたんです。誰かに話してしまったら、絶対に真実を言い当てられてしまう。それも怖くて。必ずいつか彼女は戻ってくると。ただそう信じようとしていました」右手を左手で抑えながら痛々しく訴えかけるようにして女性は続けます。
「辛いだろう。誰かを信じる事は。一歩的な思い込みと言えなくもないからな」
「疲れました。でも、私はどうしたいんだろうって、自問した時、彼女が変わってしまっていても私は彼女が好きな事には変わりなくて、だったら信じて待っててあげてたいって思ったんです。例え裏切られても、帰ってこなくても。それが私の友情だと思ったから。・・・でも」微かに灯った希望を自ら吹き消しながら、不意に女性は口籠りました。
窓辺の健三郎先生は猫のように目を細めると、又一本、品良く鼻毛を引き抜き、まじまじと眺めて灰皿に捨てました。
「もう大分年数が経ってしまったのかな。諦める頃なのかとも思い中途半端に迷っている」
「情けないですね。ほんと」女性は儚げに少し笑いました。
「いや。そんな事もないかもしれん。もしかしたら、その相手も時間がかかっても必ずお前さんに会えるように何処かで頑張っているのかもしれないからな。少なくとも平気な顔して暮らしているような相手じゃないんだろう。お前さんを見ていてなんだかそんな気がするよ。希望を持つのは自由さ。お前さんは何も悪くなかろう」
そう言って腕組みをしながら難しい顔をした健三郎先生とは裏腹に、女性の顔が俄にぱっと明るくなったのです。
「そう言ってもらえると、気が楽になります。ずっと誰にも相談出来なくて。でも、1人で抱えているのもしんどくて。誰かに話したところで貸した私が悪いんだって一般的な意見でハッキリと言われるんだって怖くて憂鬱だったんです」
女性は目尻をそっと指で拭いながら、健三郎先生に向かってありがとうございますと深々と丁寧なお辞儀をしました。
「なんともしょっぱいご時世だからな。己の事は己で全て処理しろと。例え弱音にしても後悔事にしても聞きたくはない。聞ける余裕のない人間ばかりだからな。正直な人間が馬鹿を見る。まっとうな人間が苦しむ。まぁ仕方あるまいよ。だがな、どんな時でも己の中の気持ちだけは捨てたらいかん。捨てた振りをして隠し持っておくべきだ。それは巡り巡って偶然と言う名の必然を呼ぶだろう」
「成る程。偶然という名の必然ですか・・・」僕は思わず感嘆の声を上げてしました。又しても名言です。
「そうだ。この世に偶然はないという。あるのは必然だけだそうだ。だが、必然は奇跡を底上げしたものと考えても差し支えないだろう。つまりは物事は全て感じ方、考え方なのだ」
ほぉーと二人分の感嘆のため息が漏れました。さすがは文字を専門にされている方は違いますね。ここ数日の女性の曇った表情がまるで太陽の光が差し込んだかのように晴れ晴れとしたのです。この方もお一人で大分辛かったのだと思いますが、こうして少しでも気が和らいだようで本当に良かったです。僕はすっかり安心して、お二人に生ミントを入れたアイスコーヒーをお出ししました。最近、個人的に嵌っている飲み方です。ミントの香りとコーヒーの香りがなんとも言えずフレッシュで、夏らしいのです。と言ってもマニアックなので好き嫌いは分かれるとは思いますが。
「むむっ。これは何とも斬新な」
「ほんと。でもスッキリしていて不思議な味・・・」目を真っ赤に腫らした女性は初めてにっこりと笑いました。
お二人は不思議そうに、けれど残さずコーヒーを召し上がっていました。気がつくと窓の外はピンク色の夕暮れの光に染まって店内に差し込む閃光も美しく輝いていました。やれやれ。今日も暑かったな。
数日後、ボブの女性が店を訪れました。もうすっかり表情は明るくなり、白いワイシャツにグレーの縞が入ったパンツ姿と黒いパンプスといった感じのきちんとした格好をしていました。注文する飲み物もアイスミントコーヒーに変わっていました。彼女は書類の束をたくさん抱いてきて、カウンターに座るなり、その書類をばさっと広げて隅から隅にチェックし書き込み始めたのです。どうやら何かの学校の先生のようでした。
「何の教科を受け持っておいでなんですか?」
コーヒーをお出しする時に何気なく訪ねましたら、女性は顔を上げてにっこりと笑いました。同時にその顔に寄り添うように大きめの銀色をしたループピアスが誇らしげに揺れました。
「栄養学なんです」
成る程。管理栄養士の先生だったようです。だから血糖値だとか仰っていたんですねと納得しました。