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珈琲日和 その18

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「ただ、ああやって人間でもない生き物を、誰かに平然と親友だと言い切れる店長さんがなんだかおかしいような、羨ましいような変な気持ちで・・・あ、ごめんなさい。別にからかっている訳じゃないの」
「いえ。大丈夫です。僕にも勿論人間の友達もいるんですけど、小太郎はちょっと特別なんです」
「小太郎というのね。あの蜘蛛は」女性はまた少し笑って答えました。
「ええ。蠅取り蜘蛛の小太郎です」
「そう・・・店長さんはよっぽどあの蜘蛛を信頼しているのね。口ぶりから伺えるわ」
「はぁ。信頼しているとかしてないとか、そういうのはあんまり考えた事がなかったですね。ただ僕が小太郎を大切な親友だと思っているだけで。小太郎の気持ちなんてわかりませんよ。話せる訳でもないんでね」僕がそう言うと、女性はそれもそうねと乾いた声で曖昧に笑いました。なんだかその笑い声はぽっかりと宙に浮かんだままいつまでも漂っているようでした。
「言葉を話せる人間同士でさえも、相手の気持ちなんてわかりはしないんだから」そこまでを口にして無理に遮るように言葉を切った女性はけれど、そこから続く話をしたいような迷っているような雰囲気でした。そういえば、つい先程にもため息と一緒に疲れたと漏らしていたのです。けれど、女性は迷った挙げ句にやっぱり仕舞い込んでおこうと決めたのか、それきり唇を開こうとはしませんでした。僕は女性が発した最後の言葉をぼんやりと考えながら、真夏の日差しでとろっとしたフルーツジュースの中に漬かってでもいるかのように見える景色を窓ガラス越しに眺めました。その窓枠の上を急に強い日差しを見た時の目に浮かぶ滲みのような残像みたいに小太郎は不器用に移動していき、棚の裏のいつもの指定席に戻っていきました。やれやれ。

 女性はその後も何度か来店されました。けれど、いつも決まって一番暑い盛りの午後にいらっしゃいました。そして、その度に何かを話したいようでしたけれど、いつも思い止まったように中途半端に言葉を切ってはただひたすらため息をつき、疲れたと零すのを繰り返していたのです。そしていつもアイスキャラメルラテをお飲みになりました。
「店長さんは、あの親友の蜘蛛がある日突然行方知れずになってしまったらどうする?」
 ある日はそんな会話から始まりました。僕は特に考えもせず探しに行くか待つかのどちらかですねとカレーをかき混ぜながら特に考えもせずに答えました。スパイスの加減を見ながらだったので、些か乱暴な答え方をしてしまったかもしれません。女性は少し困ったように肩を竦めると、そっかと独り言のように言ってから黙ってしまいました。
 店内にはカレーのいい香りが充満しています。夏と言えばカレーなので、今月からうちの喫茶店でも夏カレーと称して、夏野菜、例えばトマトや茄子やピーマンなんかをたっぷり使った、いつもの熟成させたようなカレーとは違った味付けのぴりっとしたあっさりカレーを出していました。入れる材料はその時の仕入れ状況に寄って変わってきましたが、とにかく常連さんも含めてすごく好評で、その日の分が残る事はあまりない程の売れ行きでした。お陰で、必ずお店が一段落する午後はまず明日に備えたこのカレー作りから始めなければいけない程でした。女性が来店される時間はカレーを作っている事が多い時間帯でした。
「ご馳走さん。今日のはオクラがいい味出してたぞ」
 そう言って、健三郎先生がお皿をテーブルの脇に寄せました。健三郎先生は滅多に食べ物を注文されないのに、店内を占領する有無を言わさぬカレーの匂いに負けたのか、最近はいらっしゃると必ず夏カレーを食べていらっしゃいます。勿論、渡部さん、シゲさんの面々も。
「ありがとうございます」
「うむ。連日の素麺には些か飽きてきたからな。何事にもちょうど良い刺激は必要だ」
 どうやら、先生のお家では素麺ばかりが出ていらっしゃるらしくて、いかにも満足そうに笑うと、白髪混じりの鼻毛を一本抜いて灰皿に落とし、さてと言ってまた万年筆を握り原稿用紙に向かいました。ツクツクボウシが飛んで来て、それまでいた油蝉を追い出すかのようにして我が物顔で独特の声で鳴き始めましたが、真横の硝子に陣取っている健三郎先生には全く聞こえていないように集中されているのがわかりました。
「・・・誰かとの信頼とか信用って、時としてとても重く伸し掛かってくるものよね」
 僕はカレーを小鍋に移して、洗い物を始めました。その勢いよく出し過ぎた水音に掻き消されて聞こえるか聞こえないかくらいの音量でその女性が話しかけてきましたので、僕は慌てて水を止めました。女性ははっとした顔をして恥ずかしそうにまた一瞬視線を手元に落としましたが、勇気を震ったように再び口を開き言葉を紡ぎ出し始めました。
「・・・そもそも、他人に信用とか信頼とかって求める方が馬鹿よね」
「? いいえ。僕はそんな事はないと思いますが、ただ、信用出来るとか信頼出来るという答えに至るまでの過程が大切な気もします。その過程が大切であって、最終的に導かれたその信用とか信頼はあくまでおまけかな」と、自分の経験も交えてそんな事を返してみました。
「おまけ・・・?」
 女性はショックを受けているかのように凍り付いた表情をして、それだけを口にしました。
「ええ。でも勿論それを求めたら悪いものでもないですよ。ただ、人を信じる事は、信じる人の一方的な思いだという事は忘れてはいけないと思います。例えそれによって相手が自分が思っているような反応を返してくれなくても、それに」
「そんな事言ったって、私には彼女を信じてあげるしかなかったのよっ!」
 不意に僕の話を無理矢理遮って女性が大声を上げながら勢いよく立ち上がったのです。あまりの勢いに座っていた椅子が後ろに倒れて景気のいい音が木霊しました。
「だって、そうしなきゃ、彼女が思い詰めて死んでしまうかもしれなかったのっ!だから、だからっ!私は今までたくさん助けてもらった大好きな彼女を信じる事にしたのよっ!それなのにっー・・!」女性は取り乱したように歯を食いしばって項垂れました。力を込めて握っている拳が微かに振るえています。時間にしたら30秒程の奇妙な沈黙が店全体を包みました。
「・・・それなのに、金ごと相手は蒸発しちまった、のかな」
 いつの間にやら、窓際の健三郎先生が手を止めて、今までにない程の穏やかで優しげな目をして、そう言ってこちらを眺めていました。女性は一瞬怯えたように顔を上げたかと思うと、見る間にその豊かな睫毛に縁取られた目から涙を零し始めました。健三郎先生は穏やかな眼差しを向けられていました。いえ、正確には言い当てられてしまった事によって一気に溢れ出てきた今まで必死に我慢してきたどうしようもない気持ちと共に嗚咽する女性の背中をそっと慰めるかのように先生は眺めていました。
「彼女に泣きながら相談されて、じゃあ他にどうすれば良かったのっ? 見捨てて、なんにもならない言葉をかけてあげれば良かったの? 別に善意を振る舞った訳じゃない。親友だったらって、助けてあげられる方法をいくら考えてもわからなかったのよっ!それでも・・・それでも私が悪かったの?!」
作品名:珈琲日和 その18 作家名:ぬゑ