ハーモニカ
(六)
[ 一九四三年 十月 ]
こんなに戦争が長引こうとは、誰も予想していなかった。
大本営の発表は相変わらず勇ましかったが、開戦当初の華々しい戦果報告はすっかりなりを潜めている。実際の戦況はどうなのか、正しく国民に知らされることはなかったが、戦地から人伝にはもたらされ、日々制限が増え不自由となる生活と相まって、口には出さないまでも不安が募っていることは否めなかった――もしかすると日本は「いけない」のではないかと。
連日のように駅では出征を見送る光景が見られた。比例して戦死者数も増えて行く。徴兵年齢が年々引き下げられて行き、跡取り以外の健康な男子はいつか必ず召集されることを覚悟しなければならなくなっていた。たとえ跡取りであっても、一家の働き手であっても、お国のために働く気はないのかと言う重苦しい雰囲気が蔓延しつつある。
大学、専門学校等の高等教育機関に通う学生の兵役は猶予されていたが、いつまで続くことか。すでに昭和十六年から修業年限の短縮が始まっている。つまり卒業を早めて徴兵検査を実施し、入営させる措置であった。高い教育を受ける学生は、将来、日本の舵取りをするであろう人材であり、且つ、富裕層出身者が多い。彼らの出征は国威発揚にも繋がり、それゆえに意義があった。
そして昭和十八年十月、在学徴集臨時特例が公布。満二十才に達した高等教育機関在学の男子は、理工系及び師範養成系以外、徴兵される運びとなったのである。信乃夫はそのことを、半ドンで戻った父親から聞いた。父は仕事中に聞いていたラジオの臨時速報で知ったのだった。
一月生まれの信乃夫は、まだ二十才に達していない。家の中ですら人目を憚って表面にこそ出さないが、両親は安堵していた。四、五か月もすれば信乃夫も対象になる。それでも三週間のうちに召集されるのとでは大きく違った。もしかしたら信乃夫が満二十歳になるまでに、戦争が終わる可能性もあるからだ。
信乃夫本人は、そんな可能性など信じてはいなかったし、単純に喜べなかった。音楽学校のクラスメイトの中から確実に戦場へ行く者はいる。
(…尚之?!)
「昨日」までの友達が、「明日」からいなくなるのだ。その中に、より近しい友がいることを思い出す。尚之は今年の五月で二十歳になっていた。
翌日の日曜、信乃夫は尚之の家を訪ねた。
突然の信乃夫の来訪に尚之は少し驚いた風だった。信乃夫はと言えば、訪ねたはいいがすぐには言葉が出ない。そんな様子からおそらく意味するところは察したのだろう。尚之は微笑んで、「上がれよ」と言った。
信乃夫が尚之の自室に入るのは二度目。一度目はこの冬にあった一件――信乃夫が仕事を餌にかどわされかけた件――の時。恋情の自覚と失恋を同時に味わった。それでもあの時のことを思い出すと、信乃夫の胸の奥底はほんのりと熱を帯びた。
尚之は空気を入れ替えるためか窓を開けた。秋めいた風がスーッと入って流れ、机上の書類を畳に運ぶ。それは楽譜だった。尚之は畳に散らばった楽譜を揃え机に戻し、重石替わりに掌ほどのハーモニカを乗せた。
「ハーモニカ?」
信乃夫が呟くと、尚之は「持って行こうかと思って」と答えた。どこへ持って行くのかは言わなかったが、その一言で理解出来る。だから信乃夫はあえて「どこへ?」とは聞かなかった。
「音楽学校の学生なのに、何かやってみろと言われて何も出来ないんじゃ恥ずかしいからな。でもヴァイオリン以外の楽器はやって来なかったから、ハーモニカでもなかなかに難しい」
尚之はそう言ってハーモニカを唇にあてて一曲吹いてみる。『ユーモレスク』だ。ヴァイオリンの腕なら上級生にも負けていない尚之だが、ハーモニカから作り出される音楽は、単音の旋律のみ。これではそこらの小学生が吹くのと変わらず、音楽学校の学生の名が廃る。
「どれ、貸してみろよ」
信乃夫は横からハーモニカを取り上げた。ピアノや他の楽器は高価で到底買ってもらえなかったが、ハーモニカは楽士達が映画館を去る時に楽譜と共に残してくれた。ピアノに常時触れられない餓えを、埋めてくれた手立ての一つと言える。
尚之と同じ『ユーモレスク』を和音を付けながら吹く。最前まで、尚之の唇が触れていたハーモニカだ。この部屋に入る時には胸の奥に生まれた熱は「ほんのり」だったが、今は熾火のように熱くなった。胸から頬にも伝導し、赤面していやしないかと信乃夫は若干焦っていた。それを悟られないよう、ジャズ・アレンジにしてみたりと、更に巧みに演奏して見せる。尚之の意識が、ハーモニカの作り出す音楽にのみ向くように。
「上手いもんだな?」
どうにか吹き終えると、尚之は信乃夫が意図した通り、聴くことのみに集中した感想を漏らした。
「子供の時から吹いていたからね」
手の中のハーモニカを尚之に返した。
「僕も調達しておこうかな」
「これをやるよ」
尚之は戻ったハーモニカを再び信乃夫に渡す。
「え?」
「信乃の方が活用出来そうだ」
彼はそう言って笑った。特別な意味はないだろう。しかし形見分けのようで嫌だと思った。
「いや、探せば家にあるはずだから。尚之だって、すぐにこれくらい吹けるようになるさ。音楽学校の学生なんだからな。ヴァイオリンなんかより、よっぽど簡単だぜ?」
信乃夫は三度、ハーモニカを尚之の手に戻した。それからもう一度、吹いてみろと促す。
尚之は「今の演奏の後では恥ずかしい」と渋った。
「今のはうんとこさ上級なんだから、高望みはするなよ。適当に和音を入れれば、それなりに聴こえる。和音はこうすると」
信乃夫は息の吹き入れ方を教え、手本を見せた。その後、尚之が教わった通りに反復演奏する。分散和音を付けてみたり、別の曲を吹いてみたり――ハーモニカが二人の間で行き来した。
信乃夫はこのまま、時間が止まればいいのにと思った。
音楽だけが二人を繋ぐものでも構わない。尚之が自分を見なくても、他の誰かのものになっても構わない。付かず離れず、一緒に過ごせたら、いや、たとえ遠く離れてしまったとしても、確かに生きて存在するとわかっていればそれでいい。
目前にどれも叶わないかも知れない現実が迫っていた。頬の熱は目頭に移動する。あと少し、日暮れが遅ければ、信乃夫の目からはきっと涙が零れていた。
辺りは薄暗くなり始め、手元が見えなくなっていた。明かりをつける為に立ち上がる尚之に、「そろそろ帰るよ」と言って止めた。涙は辛うじて目に留まる。
「送って行く」
尚之が窓を閉める頃には、涙は目の奥に吸い込まれた。
「女子供じゃあるまいし、大丈夫だよ」
「暗がりだとわからんだろう? それに夜道が危険なのは婦女子ばかりじゃないって、知っているはずだ」
尚之はそう言って聞かなかった。
信乃夫が帰ることを察して、彼の母親が玄関まで出てくる。夕飯の支度をしているから、ぜひ食べていけと言われたが丁重に断った。家族だけで過ごす時間も、それほどには残っていないはずだ。なおも引き止める母親を尚之は制して、信乃夫の肩に手をかけ家を出た。