ハーモニカ
秋の日暮れは一気に進む。尚之の家から大して進まないうちに、足元が見えなくなるほどの暗さになった。灯火管制下で街灯はほとんど点かない状態だから暗さが強調される。
「今日はありがとうな」
互いの表情の判別も危うくなる暗さの中で、尚之が言った。
「昨日、勅令が出たことを知って、近いうちに徴兵検査の通達が来るとわかった時、意外と落ち着いていたから、言わないまま行こうと思っていたんだ。別れのその日まで、黙っていようって。でも時間が経つにつれてやっぱり動揺してきてなぁ。顔に出さない自信がなくなってきて」
「言えばいいじゃないか」
「言えば、どうしてもそのことが意識の中に残ってしまうだろう? 四人でいる時は戦争も忘れて音楽に没頭したかったし、そうしてきた。それが出来なくなる」
「尚之」
「でも誰か一人でも知ってくれていると思うと、心が軽くなったよ」
薄暗がりの中でも、尚之が笑ったことがわかった。引いた目頭の熱がまた戻ってくる。
(どうしよう、まだ尚之が好きだ)
想いも蘇ってくる。じわじわと、胸を侵食する。信乃夫は首を振った。そうしないと、余計なことを言ってしまいそうだ。思いやりのある尚之は信乃夫を慮って、いつものように接してくれるだろうが、互いの記憶の中には残る。どこかで意識し、表面的に同じでも「同じ」ではない。尚之が今回のことを言わないでおこうとした理由と同じだ。
「かなちゃんはともかく、容子には言っておかなくていいのか?」
信乃夫は、一番苦い気持ちを思い出そうとした。尚之は容子が好きだと言う事実が、信乃夫の衝動に歯止めをかけてくれる。
「いいんだ。容子はああ見えて感傷的なところがあるから、別れの日が近づくにつれて、辛い思いをさせてしまうだろう?」
自分の気持ちを信乃夫が気づいていると知りもしない尚之は、揺らぎのない声音で答えた。知らなければ仲間に心配をかけたくない程度にしか聞こえない。しかし知っている信乃夫には言葉の端々に容子への思いやりが垣間見える。
「容子にはいつでも笑っていて欲しい」
そして続けた一言が、それを集約していた。
その一言が信乃夫の衝動に歯止めをかけ、代わって苦味が胸に広げる。思惑通りだが、やはりこの苦味は辛い。気持ちに比例して、目線が下がる。
「…わかった。じゃあ僕も、二人に気取られないように注意するよ」
信乃夫は気を取り直して顎を上げ、声の調子に注意して言った。
「信乃は大丈夫さ。口が堅いのは知っている。顔にも出さないし」
この信用を裏切りたくない。何より、このことは二人の間に出来た秘密だ。その存在を、容子には知られたくなかった。
賑やかなバス通りが見えてきた。灯火管制されてはいても、今来た横道よりはずい分と明るく、人通りも多くなる。ずっと二人で歩いていたかったが、そうもいかない。信乃夫は「ここでいい」と言った。
「あの角まで送る。バス通りだから人通りも多くなるし、あそこからだったら安全だから」
尚之の頭にはまだ二月の件が残っているらしく、信乃夫が固辞しても譲らない。あの件の後、信乃夫の体調はしばらく思わしくなかった。尚之は自分の友人がそんな目にあって、関係者を独自のルート――親族を頼りつつ――で調べるうちに、世の中には見映えの良い男も女性同様の危ない目に遭うことを知った。以来、この状態だ。場合によっては容子以上に気を遣ってくれた。
「じゃあさ、ここで見送っても一緒だろう? 何かあったら走って追いつける距離だし」
信乃夫の折衷案に、やっと尚之が引き下がった。
送ると言った角まで来て、信乃夫は振り返った。尚之の姿形が、暗さの中に浮かび上がっている。信乃夫が振り返るのが見えたらしく、手が上がった。信乃夫は手を振り返し、角を曲がる。曲がったところで、尚之のハーモニカが触れた唇を指でなぞる。
(ハーモニカ、もらっとけば良かった)
でも唇は忘れない。これから先、ハーモニカを吹く時、思い出すはずだ。今日の午後の幸せな時間を。
「帰ったら、ハーモニカを探さなきゃな」
そう独りごちた信乃夫の足は駆け出していた。
三週間後の十月二十一日、明治神宮外苑球場で、第一回学徒入兵を祝う出陣式が盛大に行われた。当日参集した約七万人の学徒兵の中に尚之もいた。容子も鼎も観客席からの見送りに参加したが、信乃夫の姿はなかった。
信乃夫はいつもの練習室に来ている。
手にはハーモニカ。奏でるのは、尚之の部屋で二人で吹いた『ユーモレスク』、それから餞別に容子を加えた三人で合わせた『すみれの花咲く頃』だ。
そう、いつでも回帰出来る――あの忘れがたい時間へと。