和尚さんの法話 「地獄」
だけど、子供が可愛いからと思って自分が代わってやろうと思っても、出来ない。
自業自得で、自分が積んだ罪は自分が受けるんです。
親とも云えども、それを代わることは出来なんです。
今はこうしてお経がありますが、お釈迦様の時代には仏様がいらっしゃるんですからね、実際に説法を聞くことが出来たわけです。
末法は仏様も阿羅漢も居ない時代ですから、お経だけが、お経にはこう説いてあるから、お経があれば判るわけです。
ところが、末法に入ってきて、現在も末法ですが、お経さえ信じられなくなってくるんですね。
「地蔵申して白さく『仁者、地蔵の罪報其の如し、或は地獄有り、罪人の舌を取りて牛を耕さしむ。
或は地獄有り、罪人のきもを取りて夜叉之を食う。
或は地獄有り、熱湯盛んに沸いて罪人をして浴せしめ、
或は地獄有り、赤く銅柱を焼きて罪人をして是れを抱かしむ。
或は緒の火を焼き罪人を追わしむ。
或は地獄有り、一向に寒氷なり。
或は地獄有り、限り無く糞尿あり。」
『臨終の善智識』
この糞尿地獄は汚いうんこや、しっこがいーっぱいの汚い地獄があると、それから寒い寒い寒氷地獄があるんですね。
ですから私はお風呂のお湯を流しますね、飲める水は、飢餓が飲んだらいいし、そういう地獄の衆生に、風呂の水を流したのを出来る限りの長い時間与えてやって欲しいと拝むんですよ、可哀想だからね。
それからお茶灯のお茶を流すときにも餓鬼に届くようにと拝むんです、時間の量の最大限を授け給えと。
これは皆さんもそうすると通じますから、してあげるといいですね、地獄の衆生は喜びます。
「――― 仁者、是の如き罪報を受くるに獄中に業道の器有り。是れ銅、是れ鉄、是れ石、是れ火に非ずと云う事無し。是れ等はこれ衆生の感ずる所なり。若し広く地獄の罪報の事を説かば劫を窮(きわ)むとも尽きざらん』と。」
― 地蔵菩薩本願経 ―
「爾の時地蔵菩薩、仏に白して言さく、『世尊、我是の閻浮の衆生を見るに拳心動念、是れ罪に非ずと云う事無し。」
閻浮というのは、この我々の住む地球上ですね。
心起これば何か悪い心を起こし、悪いことばっかりする。
「若し善根を修するも多くは初心を退す。」
ちょっと良いことをしても続かない
「若し悪縁に逢わば念々に増益す。是等の輩の人は泥塗踏みて重き石を背負うが如し。」
大きな重たい石を背負うて歩いているようなことで、沼へ足を踏み込んでしまって、なかなか出ることができないということを例えてるんですね。
我々が罪を積んで一生苦しんで送っていくことを例えてるわけです。
「漸(ようや)く窮し、漸く重く足歩深遂ならん。若し知識に逢う事を得ば替りて与に負う事を滅じ、或は全く負わる。」
善智識が顕れて、そんなことをしたらいかんじゃないか、そんなことをしたら地獄へ落ちるぞと諭されて、そして本気になって、正しい道を歩んでいったら、それは救われる。救いの道へ到達するわけです。
正しい教えを聞いて心を改めれば救われる。
「此の知識に大力有るが故に復た相扶助して行かしめ、若し平地に到れば須く悪路をかえりみて再び経歴する事無からしむべし』と。」
こんなことをしたらあかんぞと諭される。
「――― 時に会中に一人の長者あり。地蔵長者に語りて曰く、『習悪の衆生、初め少々より便ち無量に至る。」
はじめはちょっとだけだから、まあええわ、まあええわと、重ねてやっているうちに大きな罪になっていく。
「命終の時に臨みて父母、眷属(けんぞく)等宜しく為に功徳を修して以て前路を資くべし。」
そういう人達が死んだら、残ってるものたちが、親兄弟親戚の者たちは、死んだ人は大きな罪を作って死んだから、それを助けてやらなあかんというわけです。
「或は油燈を燃やし、」
お灯明を供えるということですね。
「或は尊経を転讀し、或は仏像を供養し乃至、仏、菩薩の名号を念じ、若し一名、一号臨終の人の耳根を歴て本識に在れば、」
これから死んで行くというときの状態に、お経を読む声が耳に聞こえるということです。
自分で仏様の名を唱えてるなあと、意識したらですね
「此の諸の衆生造る所の悪業の因縁を以て計るにまさに悪趣に堕せんに、」
本来ならば、地獄、餓鬼とかそういうところに落ちるはずなんですが、
「眷属等、臨終の人の為に此の聖因を修するに縁って是の如き衆罪悉(ことごとく)消滅せん。」
死んで行くときに枕経というのがあるんですが、これから死んでいくというときに説教をするんです。
臨終の善智識と昔はそう言うたんだそうです。
死にそうになったら和尚さんを呼んできて枕辺で説教を聴くのです、そしてお経を読んであげるというのを昔はやったそうです。
「――― 若し男子女人有りて在生の時善因を修せずに多く衆罪を造らんに、命終の後眷属等為に福利を造らねば七分の中而(しか)も乃ち一を得ん。 六分の功徳は生者自ら利せん。」
これから死んでいく人のためにいろいろしますよね、死んでからでもしますが、そしたらその功徳の七分の一は、その死んで行く人、或いは死んだ人に届く。
そしてその功徳の七分の六はそれを行った生きている人が受けるといいます。
だから仏事というのは死んだ人のためにやるんだけれども、それは死んだ人よりも勤めた生きている勤めた人のほうが功徳が大きい。
ですから昔の人は、坊さんもその説教をしたわけなんです。
それを本気で信じて自分の葬式は生きている間に自分で葬式を行ったそうですよ。
自分が死んでから葬式をしても、あの世で受ける功徳は七分の一でしょ。
ですから自分が生きてるときに自分が施主になって、自分が死んだのと同じようにお棺に入り、葬式を行ったんですよ。
そしたら七分の七の功徳が全部、自分が貰えるということになりますね。
だから生前に葬式をしたということが記録にもあるんです。
「死せる者、若し罪業繁多なればややもすれば百千歳を經るも解脱の事無し。
若し是れ無間の罪人なれば百劫千劫、万劫と雖(いえど)も其の罪消ゆる事無し。
是の故に閻浮の衆生、若し能く父母、乃至眷属の為に命終の後、福を設けて供養し至心に懇勸(ごんがん)すべし。」
是の如きの人は存亡に利益を得ん』と。」
供養をして勤めたら功徳が貰える。
「是の語を説く時忉利天宮に千万の閻浮の善鬼神有りて悉く無上菩提の心を発す。長者亦礼を作して退く。」
― 地蔵菩薩本願経 ―
『黒暗地獄』
と、いうようにお経の中の部分を抜き出したんですが、このようにちゃんとお経にあるわけなんです。
このお話をして下さった和尚さんは、実際に地獄を見たそうですので、続けてお話をします。
或るお客さんがみえて、そしてその後ろに坊さんが現れたんですが、その坊さんの周囲が真っ暗なんです。
これは、ここには出てきていませんが、黒暗地獄というのがあって周囲が真っ暗なんです。
その坊さんの周囲が真っ暗ということは、そういう所に落ちてるんですね。
作品名:和尚さんの法話 「地獄」 作家名:みわ