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和尚さんの法話 「法句経」

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この常というのは変化しない、変わらないという意味ですよね。

その常が無いというのだから変わらないものは無いということです。

我々の周りに常のあるものはあるであろうかといっているんですね。

「生滅々已」というのは、ういのおくやまですね。

有為(うい)というのは仏教の言葉で、有為と無為というのがあります。

有為というのは、作られたもの。机とか畳とか家とか人間も生まれて作られたものですから、作られたものは全部滅びるのです。

地球も天体も全てのものが作られては滅びるわけですね。

結局、有為というのは無常ですね。



「ういのおくやまきょうこえて」

今日超えてというのは、悟ってという意味ですね。

無常の世界を超えてということです。



「ういもせず」

とは、もう迷わない。ふらふらしないと、そういう意味ですね。

浅い夢も観ないし酔うというか、迷うこともない。

それが寂滅を現してあるわけです。無常を卒業するという仏教の道理ですね。

そういうふうに知的な教えと情的な教えとがあるのです。

煩悩にも知的な煩悩と情的な煩悩と、そういう二つがあるわけです。



「汝等黒暗に覆われて」

暗闇に覆われていて、どうして灯明を求めないのか。

つまりなんで法を求めないのかということです。

法灯という言葉がありますね。

法の灯に例えたり、船に例えたり、薬に例えたり、お釈迦様は言葉をいろいろお使いになっていますね。

汝等黒暗に覆われて、無常ということを知らない。

死んでどうなるということも知らない。言うならば暗黒なんだということですね。

なんで法の灯明を求めないのかということです。

仏教のこういう内容を全く知らない人が、急にこういうことを言われたら、なんと味気ないと思う人もあるかもしれませんね。

お釈迦様が説法するときにもお弟子のなかに、こんな話は要らんといって去る人もあったというのですからね。

そのお弟子さんはお釈迦様のところにどれくらいの間居たのか分からないですが、やはり縁が熟さないとだめだということですね。

仏教では因縁、仏縁ということをいいますが、これは大事なことでございます。

仏縁が無かったら縁無き衆生は度し難し。
救われないというくらいですから。

あのお婆さんの例をみても分かりますね。

婆さんよと前を向いて言っても横を向いてしまう。

また横に行って言うと後ろを向いてしまう。

これが縁無き衆生なんだという話です。

だから仏縁というのは一遍こういう話を聞いてすーっと入っていくというのは、その人は前世の仏縁の重なってる人ですね。

それは仏縁だけがそうではありません、人間同士でもそうです。

この世へ来たら忘れているけど、前世で一緒に会ってることがあるんですよね。


例えば夫婦であったとか、兄弟であったとか、また友人であったとか、そういう縁というものは大いにありえるものです。

前世で仲のよかった二人が、この世へ別々に生まれてきて、たまたま出会ったとしますと、また仲がいいんですね。またその逆もあります。

皆さんどうでしょうか、初めて会う人なのに非常に懐かしく感じる。
それは前世での因縁があるんですね。

弘法大師と恵果阿闍梨という方がいらっしゃいますね。

弘法大師は真言密教を学んだわけですが、ところがその真言密教という教えはその頃はまだ日本に根付いていなかったんです。

弘法大師はそれまでに日本に渡ってきているお経はほとんど読んだんですよね。

他の坊さんも同じように読んでるんですよね。

そして日蓮上人は法華経を選んで、法然上人はお念仏を選んだわけですから。

弘法大師はどのお経も納得いかなかったわけです。

それは誰に聞いても分からないし、自分の読むどのお経にもこれという自分の求めるお経は見つからなかったんですね。

これで全てではない、ほかにもきっとあるに違いないと。

これはもう神仏に聞かなければ仕方が無いと思って夢でお告げを下さいと頼んで教えてもらったんですね。

それで弘法大師は、奈良の東大寺で祈ったんですね。

そして夢でお告げをもらったわけです。


「汝の求めるものは、大和の久米寺の経蔵の内にある」と。

そして寺へいって、経蔵の中へ入って経の巻物を片っ端から見たんですね。
そしてそこに大日経というお経があったんです。

何処にもなかったのに久米寺の経蔵の中にだけ大日経というお経があったんです。

夢のお告げのとうりだったんですね。

その大日経を読んで、これを求めていたんだと納得がいったんですね。


そのお経の空白になったところに、

「昔中国から密教を広めに日本へ来たんだけれども、その頃は日本には誰も真言密教を聞く耳を持たなかった。いずれ菩薩がこの世へ現れてこのお経を広めてくれるであろう。そのときを待って、私は中国へ帰る。」

と、いうことを書いてあったんです。

その中に弘法という言葉が出てくるんです。



「弘法利生の菩薩」弘法とは、法を広めるという意味ですね。

利生は衆生を利益する菩薩。つまり衆生を救う菩薩。

いずれじがきて縁が熟したときに法を広めて衆生を救う菩薩が出現してこの密教を広めてくれるであろうという意味です。

それを待って、私は帰るということを書いてあったんです。

弘法大師の弘法はここからもらってるんですよ。

本来は空海という名前ですね。

大師をもらったときにこのことから弘法という名前をもらったわけです。

真言密教のお経には陀羅尼が多く出て来ますね。

陀羅尼はインドの言葉ですから誰も分からないわけです。


『お釈迦様』

そういうことで、日本には分かる人がいないから中国へ渡って、それに相応しい人に会って教えを乞わないといけないというので中国へ渡ったわけです。

そしたら中国に恵果阿闍梨という方がいらっしゃって、その方の教えを受けた。
そういうことなんですね。

その恵果阿闍梨と弘法大師は常に一緒に生まれてきているということです。

一緒に生まれてきては、子弟となる。だから同じような位の人なんですね。

この世では恵果阿闍梨がお師匠さんで、弘法大師が法を受けたけれども、前の世では弘法大師が師匠で恵果阿闍梨がお弟子さんで、来世はまた弘法大師が先生で恵果阿闍梨がお弟子でと、前世でこう約束をしてあるというのです。


弘法大師だけじゃなくて、お釈迦様のお弟子さんも皆そういうふうに一緒に生まれてきているわけです。

当時、お釈迦様が仏教を広めだした頃は、インドにはバラモン教というような古い宗教が既にあるわけなんですが、仏教は新興宗教なんですね。

ところがお釈迦様は他の宗教と違って仏様ですから神通力は持ってる、鞭撻は確かだし徳が高い。

そういう人ですからいったん他の宗教を信じていた人でも一遍お釈迦様に接したらもう皆、仏教信者になってしまうわけです。

それで他の宗教は信者をとられてしまうというので、仏教教団は迫害を受けるわけです。

お釈迦様はあちこちに法を説いて回りますね、そして或るときに或るところに行ったときに、そこの宗教団体が、釈迦という者が来るそうだ、あれが来たら信者が減って困る。