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和尚さんの法話 「法句経」

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さじというのは美味しいものをすくって食べさせますね。

美味しいものをすくって食べさせるのにその味を知らない。

どんなに美味しいものに接していたってそのその味を知らない。



「智者は賢人に近づくと速やかに正法を悟る。」

これは仏縁が深い。

この世だけじゃない前世からの因縁ということになるのですけれども。

「それは能かも舌の味わいを知るが如し」

この舌というものは味わうのですから美味しいものは美味しいと。

ちょっとでも舌へ物を乗せたら美味しいものは美味しいと分かる。

ところがさじはいくら美味しいものをすくっても分からない。
これは例えですね。

それはあたりまえでしょといわれたらお終いですけれども、これが愚者と智者との仏法に対する例えなんですね。



「人若し、年樹百歳ならば生と滅とを知らざれば、一日生きて生滅を見るに如かず」

例えば人が百年生きたとしても、生滅、つまり無常と言うことを言っているんですよね。

百歳になっても生滅を分からんけど一日生きて悟ったらそれで死んだほうがましだというわけです。

これも例えですね。悟ってあの世へいったときにそれが資量になるというわけです。

仏教では、善とか悪といいますよね。

それは道徳的な功徳を積むとか、悪いことをするとか、こういうことでしょ。

それも大事ですけれども、ものの道理なんですね。仏教の説く道理ですね。

こうしたらこうなりますよというように、例えば南無阿弥陀仏と言うたら極楽へ往生できるというように、浄土教の道理ですよね。

そういう道理を知るということです。

善いことをしなさい悪いことをしたらいかんというのもひとつの道理ですけれども、それも大事ですが、それとは別に仏教はこうしたらこうなりますよと、善悪とは別にね。

別の言葉でいいますと、善いことをする悪いことをするというのは感情的でしょ。


『修惑。見惑。』

情的な問題ですね。今の言う別に、生死とか極楽へ往生するというのは知的な部分があるんですよね。

別な言葉でいうと学問と言うてもいいのですけれどもね。

悪いほうでいいましたら人を殺すとか犯すとか怒り、愚痴、貪欲といいますが、これは情のほうですね。

修惑(しゅわく)の惑というのは煩悩のことです。

誘惑される煩悩ですね。

修というのは、修行なんです。

修行をしなければ断ち切れない煩悩のことを修惑というのです。

そういうのを情的煩悩。これを修惑というのです。

それに対して知的煩悩を、見惑といいます。

これは怒るとか、どうするとかいうのは関係なくて道理です。

その道理に暗いのが見惑です。


例えば、善いことをしたら善い報いがあり、悪いことをしたら悪い報いがあるというのは仏教の道理ですよね、原理です。

その原理を認められるか認められないか、信じることが出来るか、信じることができないかと、そういう問題があるわけです。

悪いことをして悪い報いがあるかと、信じない人がいますね。
それを見惑といいます。

お釈迦様が説いてることを認めて信じて、それを実行する。

認めなければ実行になりませんのでね。

それで無常というのを知的な問題ですよね。

知的な判断で、なるほど無常ということはそういうことなんだ、人間は死ぬんだなと、そしてあの世があるのか無いのかというのがからんできますけど。

そういう説かれていることを素直に信じると、信じられたら最後は知者ということですね。

ヒマラヤ山には耐えず雪が積もっているといいますね。

雪山といいますね。
この山にずっと、前世に一人の修行僧が住んでいて真理を求めていたのです。

一人で修行をしていたんですね、人生とはなんであるかと。

幸福とはなんであるのか。

あの世があるのだろうか、ないのだろうかと。


『いろは』

そういう宗教的なことを耐えず考えて修行をしてああだこうだ、ああだこうだと考えて雪山に住んでいたわけです。
そうして真理を求めていたら、何処からともなく声が聞こえてきたのです。

「諸行無常、是生滅法」と。
諸法は無常なり。諸行とは我々の全てのものが無常であるということですね。
是生滅の法なり。法というのは存在という意味になりますね。生滅する存在ですね。
永遠ではない、不滅じゃない。全てのものは無常であると。

全ては生滅してしまう存在なんだと。

そういう声が何処からか聞こえてきたのですが、辺りを見ましたところが、一人の羅刹、鬼ですね。

食べ物がないために飢えた鬼が岩陰にいるのです。

それでその若い修行僧が、その鬼しか居らんから、今この言葉を言うたのはおまえかと聞いたんです。すると鬼は、私だと。

お前は大変なことを言うたぞ。たしかにこのとうりだ、と。

然し、これで終わるはずがない。きっとこのあとがあると思うのだがと聞くと。

あとがあると鬼が応えるのです。

それならば、そのあとの句を教えてほしい。

鬼は、教えないことはないが、ひとつ条件がある。

どんな条件でも聞くから教えてほしい。

その条件というのは、ちょっと難しいのだと、鬼。

どんな条件でも聞くから教えてもらいたい。

それならば教えないことはないが、その条件というのは、自分は食べるものがなくて飢えてこのとうりだ。

だからお前のその命と引き換えにあとの句を教えてやる。

しばらく考えたけれども、よろしい私の命と引き換えにあとの句を教えてください。

私の身をあなたにあげよう。
それならば教えようと、約束をしまして、

「生滅々已(しょうめつめっち)、寂滅為楽」寂滅を楽と為す。

ここが救いなんだということですね。

寂滅の境地が救いなんです。

それが楽なんだと。

無常は苦なんだと。

寂滅というのは、絶対の境地なんです。

つまり生滅も終わった境地です。

つまり別の言い方をしましたら輪廻を卒業するということです。

これをあとの句として説くわけです。

この句を教えたんだからその身体を食わせてほしいと鬼がいうと、ちょっと待て、せっかく句を教えてもらったんだから誰かにこの句を残してやりたいと思うから書いて残しておきたい。

と言うて、その辺りの岩とか木の幹に自分の血でもって書くのです。

若し、心あるものがこれを見たら、きっと悟ってくれる。

そして書き終わって、これでよしと、鬼の前に座したらその鬼がたちまち変化して仏教守護の神が姿を現したのです。

この僧の心を試すために鬼に変化してそういうことを言ったのです。

これは華厳経というお経に出てくる話なんです。

これが歌になってるのがいろはですね。



「諸行無常、是生滅法 生滅々已 寂滅為楽」

いろはにほへどちりぬるを わがよたれそつねならむ ういのおくやま けふこえてあさきゆめみし えひもせすん。

この歌は誰が作ったのか分からないのですが、この句を歌に作ったのです。

内容はこの句ですね。

我々の姿形がどんなに綺麗であっても、いずれ死ぬときがくると、無常を言っているんですね。

諸行無常ですね。

我々の世の中に何ひとつとして常なるものはない。