和尚さんの法話 「法句経」
信者が減ったら生活にかかわってくるわけです。
その頃の僧は信者のお供養によって生活が保たれているのですよね。
ですから信者が減るということによって生活に関係してくるわけです。
それで釈迦という者をなんとかしてこの国から追い出さないといかんという相談がまとまった。
その国の王が僧に帰依しているので、釈迦という者がこの国に入ってきたら、説法は聞いても布施をするな。
布施をするものがあれば死刑にするというお触れを出すように王に言ったわけです。
そこへお釈迦様の教団が入ってくるわけです。
ところが説法は聞くけれども布施をしてくれない。
食べる物を布施してくれないと、これは困りますね。
そこで阿難が、そこらを駆けずり回って布施者を探すのです。
ところが誰もしてくれないのですが、たまたまその国へは行ってきてた行商人がありまして、馬を連れて荷をたくさん積んで、あちこちの国を行商しているわけです。
そこで阿難がそこへ行って、あなたはこの国の人じゃないからこの国の教えに背いてもあなたは罰せられることはない。
我々は布施してくれる人を探しているのに誰もしてくれない。
我々のために供養をしてくれないかと言うたら、行商人が、それは出来ないことはないけれども、私はご覧のとうり行商をしているのです。
次は何処の国。次はこの国というように行商をしているわけで、食料もしょっちゅう持っているわけではないので、あちこちで補給をしながら、計画をしているわけです。
ですから今あなた方にお供養をしてしまうと私自身が困るのです。
連れてるのは私ひとりではないのです。
番頭から丁稚から大勢連れているわけですから。
ですが、荷を引っ張っている馬。馬の餌なら麦ですから何時何処でも補給ができるからそれだったらいくらでお供養をしましょう。
そこで阿難が、私たちはいいが、如来様であるお釈迦様に馬の餌を食べて頂くというのは、なんとも忍びない。
ちょっと待ってくださいちょっと相談してきますから。
と、いってお釈迦様のところへいって、世尊、実はこういうわけで、これしか方法がございません。どういたしましょうと。
ああ、それでいいから供養をしてもらいなさい。
そういうわけで馬の餌を食べながらその国を教化するのですけれども、自分が連れてる弟子の数だけのくじを作って、阿難に馬の餌を食べながら私と一緒にこの国を教化しようと思うものは、このくじをひきなさいというて弟子にくじを引かせたんです。
そしたらくじが二本残ったんです。
二本残ったということは、誰か二人くじを引いていない弟子がいる。
すると舎利弗と目連がひいてなかったのです。
どうしてくじを引かなかったというと、私は猛烈な下痢を起こしているのですと舎利弗。
若しもこの馬の餌を食べたら命がもちません。
私は悟りを開かせてもらって阿羅漢になりましたので、死ぬのはなんでもございませんが、まだ生きてすることがございますので、ここで死ぬわけにはまいりませんので、真に恐縮でございますが、ご辞退させて頂きたく思います。
それはもっともだ。
目連はどうして引かなかったのかというと、出家者は家族がいないから下痢を起こしている舎利弗の世話をしてあげないといけないから。
それもそのとうりだと、いうことになったんです。
それでお釈迦様が馬の餌を食べているのを阿難が見て、仏様ともあろうお方が何の因果でこのような馬の餌を食べんならんのだろうと思ったんですね。
それをお釈迦様は分かるので、お釈迦様の前世のお話をなさるのですが、そのお釈迦様という如来様という方は、お釈迦様一人がこの世へ出てくる、あとにはもう無いというのではないのです。
過去に無数の仏様があるし、未来にも無数の仏様がこの世へ出てくるわけです。
それで、かつてずーっと過去に或る仏様がこの世へ出てくるのですがお経にもその仏様の名前が出て来ます。
そのときに或る仏様がこの世へ出てくるのですが同じように仏様ですから徳が高いから他の宗教が信者が減るというので邪魔をしてくるわけです。
どの仏様も大なり小なりの迫害を受けているんですね。
そしてある宗教家たちもやっぱり目の敵にしていたのですね。
その宗教家たちが弟子を連れて托鉢にいくとき、他の宗教家の弟子たちが托鉢から帰ってくるのに出遭うのです。
それでその宗教家の弟子が、おまえたちはどうせろくな供養を受けてこなかっただろう、どんな供養を受けてきたのかその鉄鉢を見せろといったんです。
すると美味しそうなものが盛られていたのですね。
これは私がこれから行ったら本来もらえるはずの供養であったのだ。
おまえたちは先回りして取ってきたんだ。
お前たちはこんな立派な供養を受ける資格はない、馬の餌でたくさんだ。
と、こう言ったんですね。
その宗教家の弟子の二人だけが、お師匠さんそれはあんまりな言葉じゃございませんかと宥めたんですね。
日頃から人をさげすんだり悪口を言うたらいかんとかお教えになるあなた様が他の宗教とはいえそんなことをおっしゃったらいかんのと違いますかと言ったのです。
前世にそういう話があるんだと。
さて弟子たちよ、そのときの宗教家というのが私なのだ。
そのときの、とめた二人というのが舎利弗と目連なのだ。
だから今この馬の餌を食べずにすむのだと。
そういうお経があるのです。
だからお釈迦様の教団にいた人は皆、師弟の関係なんですね。
そして舎利弗と目連は、空海と恵果阿闍梨のように何時生まれても親友だと説いてありますね。
ですからお釈迦様はいつでもお釈迦様じゃないのです、凡夫の時代もあったわけです。
そして他の宗教教団に入ってあったときもあったわけです。
そして仏教教団をけなしたこともあった。
だからかつては地獄に落ちていたときもあったと、お経に説いてありますね。
だから皆初めから立派ではないのです。
そういう地獄に落ちてあっても修行をして仏に成っていくのです。
ですから我々も先には如来様に成れるのです。
ですから仏教は大世帯ですよね。
宗教家は一人ではないのです。
無数の仏様が前世にもあるし、来世にも浜の真砂の数ほどの仏様があるのです。
了
作品名:和尚さんの法話 「法句経」 作家名:みわ