和尚さんの法話 「法句経」
『汝は今や枯れたる葉の如し』
衆生に対して、「汝は今や枯れたる葉の如し」。
枯れた葉のように枯れて落ちそうになっていて、今にも落ちそうな状態だという意味ですね。
これは仏様の目から見ると我々はそういう状態だということです。
「閻魔の使者傍らに立つ」
善いことをしていたらよろしいのですが、行いによっては地獄へ落ちるかもしれませんね。
閻魔の使者が側に立つ。もうそこへ迎えに来ている。
息を引き取ったら連れていこうと思うて、もう本人には分からないけれども側に立っているんですね。こういうお言葉なんですね。
「汝は今や死別の門に立つ」
死に別れる。もう近々死ぬ。
病気でなくても突然死ぬ方がありますね。
急病が起こるとか、災難もございますしね。
「されど汝に前途の資量あること無し」
資量というのは材料のことですが、ここではあの世へ行くときの功徳ですね。
平素から積んだその功徳が無いというのですね。
そういう悪い人の例えですからねこれは。
悪い人に対する、無常とか死後の世界とか信じない人に対する教訓ですね。
そういう状態に仏様の目から見たら見えるんだということですね。
自覚を持ちなさいということですね。
「汝は今や壮年を既に過ぎ」
壮年のそういう元気な盛りを過ぎて、老年に迎っている。
「閻魔の死者その傍らに立つ。死しては必ずその門に入らん」
閻魔さんの地獄の門へ行くことであろうということです。
「汝は既に壮年過ぎし閻魔の死者その傍らに立つ。死しては必ずその地獄の門に入らん。されど汝に前途を知ること無し」
準備はどうだという警告ですね。
「無人の老いるは牛の老いるが如し」
仏教が無人というのは、無常の因果の道理が分からない。
仏教のことをちっとも分かっていない。仏教に頼まなければ救われないのですから。
その縁のない人。そういう人たちを無人とおっしゃいます。
無人が年をとっていくのは、牛が年をとっていくようなものとかわりがないというのですね。
「肉は増するも慧は増すことなし」
人は年をとったら肉は衰えると思うのです。
小さいときは大きくなって肉は増えていくというだけで、年をとったら多少は太ることもありますが、肉は増えるが智慧はちっとも増さないということですね。
「この肉体というものは病の巣なり」
生老病死というのは仏教の三原則ですから。
生はもう既にすんでいるのですけど、この姿形がやがて衰えて病の巣なんだ、年々刻々に衰えているのですから、いくら運動をしてもそれは一時的な効果はあるかしれませんけれども、永久に若々しくいけるかというと、やっぱり年をとって老いて死んでいかなければいけませんね。
「全て破亡する」
全てが無くなっていくというのですね。
「災壊(さいえ)の積果は衰えるが如し。全て破亡す」
災難に遭って、家を焼いてしまったりして滅びていくということです。
肉体というのはどんなに若々しく綺麗であっても、それは一時的なことで何れ滅びていく。
病にかかるか、災難に遭うか、兎に角滅びていく。
あの世へいくのは決まっているんだから、ということですね。
「骨を以って城と為し、骨と血を塗り」
我々のこの肉体というのは、骨を以って城と為し、骨と血を左官屋さんが壁を塗るように、肉と皮と血でもって固めると。
その中に老と病と死を包んでいるというのですね。
それが人間ですが、その中になにがあるというと、死なんだと。
「王車の麗しき」
王車というのは王様の車ですね。
当時のインドの王様というのは貧富の差が大きかったから王様の車というのは非常に立派な車だったんですね。
人目で王様の車と分かるような、美しくて麗いのですが、必ず朽ちるときがくる。
どんなに立派な車でも使っていると古くなって朽ちてくるし、飾りも落ちてくるしね。
一時はその車も綺麗だけれども、年月がつにしたがってだんだん古びて壊れていく。
「身もまた各の如く劣る」
我々の肉体もその車のように衰えていく。
「ただ善の徳は衰えず」
善の徳を積んでいたら功徳というものは、身体は滅びるけれども功徳は滅びない。
それはあの世へいって、あの世の善行の資量になるからですね。
「子も救う能わず父も救う能わず共に親類も共に死に囚われたるもの」
もう今死んで行くという者。
もう死ぬのが決まっているけれどもそれを代わってやることが出来ない。
人の死に対して代わることは出来ない。
『社会の中において悪業の報いの免れるところなし』
「虚空に非ず、海の底に非ず、山中の穴に非ず、社会の中において悪業の報いの免れるところなし」
善の報いはよろしいですが、悪の報いは空中の、今は地球を回る衛星がございますね、
そういうふうに空へ逃げていこうとしましても、海の底に沈んで隠れようとしましても
山の中の穴の中に隠れようとしましても世界の何処へいっても悪業の報いから逃れることはできない。
善の報いは全く逃れる必要がないですが、悪のほうは我々はやっぱり避けたいですね。
だから先ほどの話のように何処へ逃げたって逃れられるものじゃないんだというんですね。
「眠れざる人には夜は長く、疲れたる人には道は長く、正法を知らざる人には生死長し」
これは輪廻ですね。
今我々は輪廻してきているわけです。
その輪廻から逃れるというのが仏教の願いですね。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、この六道。
その六道に善いことをしたら天上へ生まれますけど、悪いことをしたらまた地獄へ落ちる。
くるくるとこの世とあの世を回るわけです。
細かく分けると六道。もうすこし縮めたら三界となりますね。
その三界六道を出る。それは、仏道を求めなければ出ることは出来ないのです。
もうひとつは正法。正しい法ですね。
兎に角、仏教に入らなければ救われないということです。
その救いとはどういうことかと、皆出家とか救いというけれども、救いとはどういうことかといいますと、輪廻から逃れるということです。
もう再び死なない。
輪廻とは死んだり生まれたりを繰り返すことですから、その輪廻を卒業するということは、もう死んだり生まれたりしないということです。
もうこの世へ生まれて来ないということです。
この世へ生まれてこないというと、聞きなれない人には、なんとまあ、味気ない話ではないか、
また生まれてきたいのにと、こういうふうにお思いになると思うのですけれども、
この世へ生まれてきたら生老病死と、その間に四苦八苦といろいろあって、
それを繰り返すわけです。
そして最後は死ぬ。それを無限に繰り返しているわけです。
それを逃れようと思うと、仏法を求めなければ出られないんだということなんです。
「愚者は賢人に接するも正法を知らず」
賢人とは、仏法を心得ている人のことですが、せっかくその賢人に会っていても、仏縁が無いために正しい仏法を得ることが出来ない。
それを求める気持ちが無いので資量にならないというわけですね。
「それはさじは自ら味わいを知らない」
衆生に対して、「汝は今や枯れたる葉の如し」。
枯れた葉のように枯れて落ちそうになっていて、今にも落ちそうな状態だという意味ですね。
これは仏様の目から見ると我々はそういう状態だということです。
「閻魔の使者傍らに立つ」
善いことをしていたらよろしいのですが、行いによっては地獄へ落ちるかもしれませんね。
閻魔の使者が側に立つ。もうそこへ迎えに来ている。
息を引き取ったら連れていこうと思うて、もう本人には分からないけれども側に立っているんですね。こういうお言葉なんですね。
「汝は今や死別の門に立つ」
死に別れる。もう近々死ぬ。
病気でなくても突然死ぬ方がありますね。
急病が起こるとか、災難もございますしね。
「されど汝に前途の資量あること無し」
資量というのは材料のことですが、ここではあの世へ行くときの功徳ですね。
平素から積んだその功徳が無いというのですね。
そういう悪い人の例えですからねこれは。
悪い人に対する、無常とか死後の世界とか信じない人に対する教訓ですね。
そういう状態に仏様の目から見たら見えるんだということですね。
自覚を持ちなさいということですね。
「汝は今や壮年を既に過ぎ」
壮年のそういう元気な盛りを過ぎて、老年に迎っている。
「閻魔の死者その傍らに立つ。死しては必ずその門に入らん」
閻魔さんの地獄の門へ行くことであろうということです。
「汝は既に壮年過ぎし閻魔の死者その傍らに立つ。死しては必ずその地獄の門に入らん。されど汝に前途を知ること無し」
準備はどうだという警告ですね。
「無人の老いるは牛の老いるが如し」
仏教が無人というのは、無常の因果の道理が分からない。
仏教のことをちっとも分かっていない。仏教に頼まなければ救われないのですから。
その縁のない人。そういう人たちを無人とおっしゃいます。
無人が年をとっていくのは、牛が年をとっていくようなものとかわりがないというのですね。
「肉は増するも慧は増すことなし」
人は年をとったら肉は衰えると思うのです。
小さいときは大きくなって肉は増えていくというだけで、年をとったら多少は太ることもありますが、肉は増えるが智慧はちっとも増さないということですね。
「この肉体というものは病の巣なり」
生老病死というのは仏教の三原則ですから。
生はもう既にすんでいるのですけど、この姿形がやがて衰えて病の巣なんだ、年々刻々に衰えているのですから、いくら運動をしてもそれは一時的な効果はあるかしれませんけれども、永久に若々しくいけるかというと、やっぱり年をとって老いて死んでいかなければいけませんね。
「全て破亡する」
全てが無くなっていくというのですね。
「災壊(さいえ)の積果は衰えるが如し。全て破亡す」
災難に遭って、家を焼いてしまったりして滅びていくということです。
肉体というのはどんなに若々しく綺麗であっても、それは一時的なことで何れ滅びていく。
病にかかるか、災難に遭うか、兎に角滅びていく。
あの世へいくのは決まっているんだから、ということですね。
「骨を以って城と為し、骨と血を塗り」
我々のこの肉体というのは、骨を以って城と為し、骨と血を左官屋さんが壁を塗るように、肉と皮と血でもって固めると。
その中に老と病と死を包んでいるというのですね。
それが人間ですが、その中になにがあるというと、死なんだと。
「王車の麗しき」
王車というのは王様の車ですね。
当時のインドの王様というのは貧富の差が大きかったから王様の車というのは非常に立派な車だったんですね。
人目で王様の車と分かるような、美しくて麗いのですが、必ず朽ちるときがくる。
どんなに立派な車でも使っていると古くなって朽ちてくるし、飾りも落ちてくるしね。
一時はその車も綺麗だけれども、年月がつにしたがってだんだん古びて壊れていく。
「身もまた各の如く劣る」
我々の肉体もその車のように衰えていく。
「ただ善の徳は衰えず」
善の徳を積んでいたら功徳というものは、身体は滅びるけれども功徳は滅びない。
それはあの世へいって、あの世の善行の資量になるからですね。
「子も救う能わず父も救う能わず共に親類も共に死に囚われたるもの」
もう今死んで行くという者。
もう死ぬのが決まっているけれどもそれを代わってやることが出来ない。
人の死に対して代わることは出来ない。
『社会の中において悪業の報いの免れるところなし』
「虚空に非ず、海の底に非ず、山中の穴に非ず、社会の中において悪業の報いの免れるところなし」
善の報いはよろしいですが、悪の報いは空中の、今は地球を回る衛星がございますね、
そういうふうに空へ逃げていこうとしましても、海の底に沈んで隠れようとしましても
山の中の穴の中に隠れようとしましても世界の何処へいっても悪業の報いから逃れることはできない。
善の報いは全く逃れる必要がないですが、悪のほうは我々はやっぱり避けたいですね。
だから先ほどの話のように何処へ逃げたって逃れられるものじゃないんだというんですね。
「眠れざる人には夜は長く、疲れたる人には道は長く、正法を知らざる人には生死長し」
これは輪廻ですね。
今我々は輪廻してきているわけです。
その輪廻から逃れるというのが仏教の願いですね。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、この六道。
その六道に善いことをしたら天上へ生まれますけど、悪いことをしたらまた地獄へ落ちる。
くるくるとこの世とあの世を回るわけです。
細かく分けると六道。もうすこし縮めたら三界となりますね。
その三界六道を出る。それは、仏道を求めなければ出ることは出来ないのです。
もうひとつは正法。正しい法ですね。
兎に角、仏教に入らなければ救われないということです。
その救いとはどういうことかと、皆出家とか救いというけれども、救いとはどういうことかといいますと、輪廻から逃れるということです。
もう再び死なない。
輪廻とは死んだり生まれたりを繰り返すことですから、その輪廻を卒業するということは、もう死んだり生まれたりしないということです。
もうこの世へ生まれて来ないということです。
この世へ生まれてこないというと、聞きなれない人には、なんとまあ、味気ない話ではないか、
また生まれてきたいのにと、こういうふうにお思いになると思うのですけれども、
この世へ生まれてきたら生老病死と、その間に四苦八苦といろいろあって、
それを繰り返すわけです。
そして最後は死ぬ。それを無限に繰り返しているわけです。
それを逃れようと思うと、仏法を求めなければ出られないんだということなんです。
「愚者は賢人に接するも正法を知らず」
賢人とは、仏法を心得ている人のことですが、せっかくその賢人に会っていても、仏縁が無いために正しい仏法を得ることが出来ない。
それを求める気持ちが無いので資量にならないというわけですね。
「それはさじは自ら味わいを知らない」
作品名:和尚さんの法話 「法句経」 作家名:みわ