アインシュタイン・ハイツ 105号室
「あ、そういえば駅前の百貨店潰れるらしいよ」
「ユウサン」がやっと言葉を発したのは、それから五分は経った頃だった。手持無沙汰になって車内をうろうろとしていた私は、心地の良い声に大急ぎで先ほどまで居座っていた席に戻ってくると、再び彼らの会話に注意を向ける。「コノエ」の手には、紫色のパッケージの小袋が握られていた。またグミ。なるほど、確かに買いすぎである。
「潰れるの?……へえ、潰れるんだ。なんで?」
「知らね。不景気だから?」
「あー………ああ。そういや、うちの近所にちょっと大きめのスーパーできたって」
「よかったじゃん。あの辺、家多い割に買い物できるとこ少なかったから」
「帰ったら行ってみるでしょ?」
「そうだな。することもないし」
それから、二人は自分たちの住む地域や過去について長々と話をはじめた。高校の時の担任に二人目の子どもが生まれるらしいこと、中学時代の友人が結婚したこと、本屋の閉店時間が早まったこと、公園からなんとかいう遊具が撤去されたこと。切りなしに話しては、思い出したかのようになつかしいな、と呟いている。
彼ら二人は、おそらく「幼なじみ」というやつなのだろう。私には、幼なじみがいるという感覚がよくわからないのだが、なんとなく楽しそうではある。幼なじみ。ある程度幼少のころから、なんだかんだと関係を続けている人々のことをいうのだろうが、幼なじみ。少し、うらやましい。今、楽しそうに笑い合っていながら色々とあるのだろうが、彼らがこれからも末長く仲良くあればいい。そして、近い将来、グミばかりでなくもっと計画性のある菓子購入ができるようにもなるといい。塩気のあるものが食べたいとぐったりしはじめた「ユウサン」を見ながら思い、彼らの方へ飛んでいき、窓ガラスに体当たりする。
「お。蜂だ」
「刺す?痛い?」
「何もしなきゃ平気だろ。つか、さっきからブンブンいってたのこいつか」
そうです、私です。どうもすみませんでした。
窓ガラスにとまってじっとしていると、わずかに身を引いて私を避けた「コノエ」が、窓開けてあげたらいいんじゃない、といった。意外と話のわかる子だった。この間は、道をうろついていただけだというのに、女子高生に不必要にきゃあきゃあ騒がれて、いっそ刺してやろうかと思ったばかりだったが。たまにからかいで彼女らにとまってみる奴らを危険好きの馬鹿だ思っていたのだが、その時ばかりは気持ちがわかった。
「開けたら無駄に飛ばされないか?」
「私、蜂じゃないから知らない」
「………それ、袋。ゴミも押さえてろよ、ちゃんと」
田舎の電車はこれだから、と「ユウサン」は窓枠の端にあるつまみを抑え、窓を五センチほど開けた。ほら下下、といい、少しして私が飛び立つと、じゃあな、と彼はちいさく呟いた。
ごう、と強い風。体が流され、体勢を立て直したときには、電車はもう小さくなっていた。あれらは、なかなかの好青年と好少女だった。好少女という評価は聞いたことはないのだが、私は蜂なので人間の操る言葉の使い方を誤ってもなんら不自由はないのである。彼らの目的地はどこなのかまでは私にはわからないが、果たして「ユウサン」は到着までに塩気を得られるんだろうか。少し名残惜しくはあるが。
さて、それでは、近くの駅まで蜜を集めがてら飛んでいくとしようかな。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 105号室 作家名:いまのじ@失踪中