アインシュタイン・ハイツ 105号室
晴れ。寒い。
BGMがわりにつけていたテレビが、快適な睡眠のためにはうんぬん、朝日とともに目を覚ますとかんぬん、といやに真面目に述べている。どうやら、最近よく見かける健康番組のひとつらしい。木枝は、人間ドックには入ってみたいが日々努力で健康になることにはこれといって興味がないので速やかにチャンネルを変更したかったのだが、リモコンがどこかにいってしまっているため、結局画面はそのままになっていた。リモコンの行方不明は、引越しに際する荷詰めで、どうせすぐに開けるのだからと適当極まりない分類をしたせいである。自身の性格からして、「どうせすぐに開ける」わけがなかったと思い知ったのは、リモコンがないことに気付いた引越しの翌日であったのだが、思い知ったからといって遠道木枝は遠道木枝だ。未だ開かずの段ボールが部屋の端でおとなしくしているのを自然のままに認めることにし、片づけを後回しにし続けている。現に今も、埋もれたリモコンを思い、件の段ボールたちに目を向けはしたものの、つまりテレビが語るこれはBGMだからただ聞き流しておけばいいのだ、と己の怠慢に言い訳をし、黙々と今年度前期開講の講義概要に目を通し続けている。木枝は経済学部の生徒であったが、福祉関連や都市問題等が意外にもなぜか経済学の分野に含まれるらしいことを大学に入学して初めて知り、これ幸いとそれらを扱った講義を主に受講していた。もともと文学部に進学したかったのだが、これならば経済学部に来た甲斐があるというものだ。と、つらつら思考しているうち、木枝は、ふとテレビを見つめたまま動かなくなった。どうやら、画面の中の医者が発した言葉に興味をひかれたようだ。少し考える風にして講義概要のめぼしい個所にさっさとペンで丸をつけると、彼女はそのままテレビに見入った。
翌日。木枝は、午前のうちに付近の散策に出かけた。新学期開始に伴い、夜型として無駄に規律正しくなっていた生活を、世間一般のそれと合わせるためである。快適な睡眠のために必要なのは適度な運動、就寝起床時間改善のためには朝の光を浴びながら目を覚ますこと。結局最後まで見た昨日の健康番組の内容を心内で唱えながら、道を行く。幾度か用事があって学校に行った際に、近所の色々な道を通ってみたのだが、なぜか商店街と銭湯に行く道しか覚えられなかった。きちんと帰るべき方角を頭の隅に置きながら歩くので、方向音痴ということはないはずだけどなぜかしらと思いながら、今日もまた、細い道細い道を通り、角を曲がり、角を曲がり川を渡る。しかし、先日行った銭湯は、なかなか期待以上だった。帰りに百円玉も拾ったことも含めてだ。その百円でアイスクリームを買って帰って食べたのが、木枝の春休み最後の幸せな思い出となったのは、若干むなしくもあるが。
顔をあげた先にある空は青く、通りに沿って植えられた桜は、やわらかな緑に混じりつつ密やかに華やかに咲いていた。あと一週間もすれば、完全に緑にのまれるのだろう。道の端には蒲公英。もう少しいけば、田畑もあったような、なかったような。まあそのうち確かめにいけばいいかと頷き、首をめぐらせ、ややあって雰囲気の気になる路地を見つけた。理由はわからないが高揚する心を抑えそちらに向かいながら、同時に、デジカメをもってくればよかったかと後悔する。高校の修学旅行にあわせて購入した彼女のメタリックパープルのデジカメは、今現在、同一の被写体ばかりを記録する羽目になっていた。
と、入り込んだ路地をしばらく行くと、道端に毛玉があった。
「……チビ?」
首をかしげつつ声をかけると、毛玉、もとい美しい灰色の猫は心なしか迷惑そうな顔をして木枝を見上げる。人間の顔すらろくに覚えない木枝にはなおのこと彼らの顔の見分けはつかないが、それでも間違いない。彼女は「アインシュタイン・ハイツ」に住まう猫、アインシュタインである。ちなみに、先述の被写体とは彼女のことで、越してきた木枝が部屋に荷物を運び込んだ後まずしたことは、たまたま鞄に入れていたデジカメ片手にひたすら彼女につきまとうことだった。
「なんでこんなとこにいるの?散歩?家出?」
家の中やその付近ではよくみかけるものの、うちから離れた場所にいるのは初めて見た。彼女の目の前にしゃがみ込みながら話しかけるも、鮮やかに無視される。ねえねえと声をかけながら、なぜ素っ気ないのかしらと考え、ややあって、ああ、と思いついた。
「ごめんね、シュタ。アインシュタイン嬢。なぜこちらにいらっしゃるんですか?」
手をのばし、顎を撫でてやりながらそう言うと、なー、と一鳴き。目を細めるさまを見ながら、幾度か耳にした住人達の声は好き勝手にこの猫を呼んでいたと思うが、もしかして木枝が考えたように、本当にチビと呼んだのがいやだったのかどうなのかと思いをはせる。鳴き声に意味をみるなら、「許す」でもありそうだし、「触るな」といっているのかもしれない。あるいは、私の言葉なんて全然関係なく「昨日の夕飯がさあ」といった可能性だってある。木枝には、残念ながら猫語はまだわからないので判断のしようがないが。
「ん?……どこいくの」
おもむろに立ち上がると、振り向きもせず歩き始めたアインシュタインを追って、木枝も再び歩き始める。猫はいいなあかわいいなあ、と散策に出てきたことも忘れ灰色の背を適度な距離を保ちつつ追うと、路地から抜けて少し歩いて見えた景色に、あら、と思わず声をもらした。
「……えー…お前、いつも通りに散歩してただけだったんじゃん。猫」
上品に座りこちらを見上げたアインシュタインに向け呟くと、にー、と機嫌よく鳴いてみせる。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 105号室 作家名:いまのじ@失踪中