レンタル彼氏。~あなたがいるだけで~
すべてが順調にいっていた。同じ職場で知り合った同じ年の鷹取健吾と付き合って既に五年になり、今年の秋には挙式を控え、まさに幸福の絶頂にいた―はずだった。
五歳で祖母に引き取られたときから、美奈恵は常に座右の銘としてきた言葉がある。
―私は両親と同じ轍は踏まない。
若さゆえの激情に任せ、愚かな破滅への道をひた走るなんて真っ平ご免だ。誰もに認められ、祝福された結婚、人生を歩む。
両親はどうだろう、自分たちは恋愛ドラマのヒロインとヒーローを地でいったと自己満足していたのかもしれないが、身勝手な若い二人の無分別がどれだけの人を傷つけ哀しませたのか。
その挙げ句が多額の負債を残しての死だった。亡くなった時、父は二十四歳、母は二十二歳だったのだ。
今年、美奈恵は二十七歳になった。早世した両親が亡くなった歳をもう軽く越えている。婚約者の健吾の実家はN市でも指折りのアパレルメーカーを経営している。健吾の父はその社長であり、長兄は副社長だ。
健吾自身は次男ではあるが、家柄も申し分なく、既に健吾は京都の水無瀬家にも出入りし、気難しい祖母も彼のことはそれなりに認めていた。結婚後しばらくはN市で新婚生活を営むが、三十歳までには京都に移り住み、いずれは水無瀬家を継ぐことも話が決まっている。
折り目正しく誠実な健吾は良い夫になるだろう。幼い美奈恵に冷淡だった祖母をけして好きではないけれど、育てて貰った恩義はある。
もし祖母が自分を引き取ることを拒否していたら、美奈恵は孤児院か施設送りになるところだったのだ。それを思えば、祖母にはやはり、言い尽くせない借りがある。母が果たせなかった義務と責任を美奈恵は代わりに果たす必要があった。
美奈恵はひそかな夢があった。それは、いずれは保育園を作るというものだ。自分の両親のように子どもをどこかに預けて働かざるを得ない親たちのために、日中は子どもを預かる保育施設を作ることができればと考えるようになったのは、いつの頃からだったのか。
いずれ祖母から受け継ぐはずの資産と土地があれば、その夢も可能だ。無駄に広い屋敷をひとまわり小さくして、空いた土地に小さな保育園を建てる。もちろん健吾には話して理解を得ていたし、祖母にはまだ話してはいないが、保育園を作るというのはけして悪い話ではない。社会貢献にもなるし、上手くやれば、新たな収入源にもなるだろう。
自分は両親とは違う。誰にも後ろ指を指されない生き方をしている。それが、美奈恵の誇りであり支えであった。ところが、である。
今から二時間前に、その自信を根底から打ち砕かれた。それももう二度と、立ち直れないほどに強く。
その瞬間まで、美奈恵は幸福のただ中を浮遊しているような心持ちだったのだ。そんな時に突然、鳴ったスマホ、電話をかけてきたのはもちろん健吾だった。
―悪いけど、結婚の話を考え直させてくれないか。
語尾は問いかける形ではあったけれど、それは完全な最後通告であった。もちろん、こんな時、結婚を控えた女が口にする科白は決まっている。
―誰か好きな女ができたの?
電話の向こうの微妙な長さの沈黙からは、その真実を推し量るのは非常に難しかった。
―いや、そんな事情ではないんだ。
―とにかく逢って話をしましょう。
だが、健吾はそれにはきっぱりと言った。
―いや、もう逢わない方が良いと思う。
―そんな無茶言わないで、私たち、三日後にはもう結婚式を控えてるのよ?
今は有給を取っているが、N市で暮らす間は美奈恵も今までどおり銀行勤めを続けることになっている。たとえ所属する部署は違えども、同じ銀行に勤務する健吾とは顔を合わせる機会も多い。婚約破棄だなんてことになったら、周囲にどう説明すれば良いのか、収拾を付ければ良いのか。
百歩譲って、それは恥を承知で堪え忍ぶとしても、幾ら何でも式の直前になっての一方的な婚約破棄は承知できかねた。
冷静を常にモットーとしている自分としたことが、あのときは動転のあまり、金切り声になってしまった。
―とにかく、済まない。僕は君に恨まれて当然のことをしていると自覚はある。恨むなら、好きに恨んでくれ。
ある意味、捨て台詞ともいえる科白だけで電話は一方的に切られた。
なに、これ。こんなのって、ありなの!?
美奈恵が茫然事実といった体のところに、今度はメールが届いた。こんなときにと苛立たしげに愛用のスマホを見ると、健吾からだった。急いでメールを開いてみると、長々とした手紙が届いていた。
そのすべては二度と読み返したくもない内容だったが、ただ一箇所、忘れたくても忘れられない一文があった。
―僕は君にはやはり、ついてゆけない。女だてらに保育園を作るだなんて、女実業家紛いのことを考えているような女を妻にするのなんて荷が重すぎるんだ。お祖母さまから受け継いだ屋敷や財産を守って地道に生きてゆくのが僕の理想であって、敢えて冒険をするような人生は歩みたくないんだ。
君は日頃から言っていたね。けして亡くなられたご両親のような生き方はしたくないと。しかし、僕から見れば、やはり君も似たようなものだ。京都の水無瀬家を継いで先祖伝来のものを守っていれば良いものを、敢えてお祖母さまを怒らせる危険を冒してまで保育園を作るだなんて、馬鹿げているとしか言いようがない。
僕は控えめではあるが、何度も君に保育園は諦めるように言った。だが、君は僕の言うことをいつも適当にはぐらかしていたね。あの頃から、僕は君との結婚について懐疑的になっていたんだ。
そこまで読んで、美奈恵はスマホを思いきり床にたたきつけた。フローリングの床にたたきつけられたスマホは蓋が開いて、中身が飛び出て酷い状態になった。これでは使い物にはならないだろうが、この際、頓着しなかった。
私が亡くなった両親と同じようなものですって?
結婚を拒絶された衝撃よりも、自分が軽蔑している両親と同列扱いされたことの方によほど腹が立った。
が、最初は怒りの方が勝っていたのに、次第にショックと焦りの方がいや増してきた。
私が健吾にフラレた? 馬鹿な、そんなことがあるはずがない。よく週刊誌やワイドショーで聞く話ではある。
結婚式直前に花婿に逃げられた花嫁。
そこで、美奈恵は自嘲めいた笑いを浮かべた。ああ、まるでお粗末な恋愛ドラマのヒロインみたいじゃないの。馬鹿げてる、本当に馬鹿げてる。
そこで、美奈恵はふと当惑した。今の自分の気持ちを冷静に分析してみると、健吾を失った哀しみやショックは殆どなく、むしろ、虚仮にされ誇りを傷つけられたことへの怒りの方が大きい。これは一体、どういうことなのだろう。
仮にも五年間も真剣に付き合い、キスどころか、肉体関係も何度かは持った相手なのだ。しかも三日後には結婚するはずだった男に逃げられて、こんなに平気でいられるものだろうか?
普通、こういう場合、下手くそな恋愛ドラマの主演女優は哀しみに打ちひしがれ、泣き崩れるはずではないか! だが、今の自分は涙ひと粒も出てきやしない。
私は健吾さんを愛していたのではなかったの?
作品名:レンタル彼氏。~あなたがいるだけで~ 作家名:東 めぐみ