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レンタル彼氏。~あなたがいるだけで~

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 でも、昨夜、彼は確かに私にキスをした。うすぼんやりとだが、あの出来事は憶えている。あの時、彼の唇が私の唇を塞いで、それから。
 幸か不幸か、それから急に吐き気を憶えてしまったのだ。まるで薄いベール越しに他人の経験した出来事を見ているかのような感覚ではあるが、眼を閉じても確かに美奈恵の唇をそっと塞ぐ剛史の姿を容易に思い描ける。
 では、あれは本当に起こったことなのだ。けして起こってはならない過ちが自分たちの間で、起こってしまったのだ。 
 美奈恵は愕然とした。最初のキスは事故のようなもの、偶然の産物だと無理に自分に思い込ませることもできた。けれど、二度目はあってはいけないはずだった。起こってしまったことは、もう取り返しがつかない。しかし、これだけは一つ断言できる。これ以上、同じ過ちを繰り返してはいけない。彼と近づきすぎては駄目。美奈恵は繰り返して自分に言い聞かせた。
 もし、これ以上、先に進んでしまえば、きっと自分たちはもう二度と今の関係には戻れない。自分の剛史への気持ちについて、美奈恵はこれまで何の疑問も持ったことはなかった。
 彼は幼稚園からの気の置けない幼なじみ。それが、彼女の中での彼の占める立ち位置だった。だが、今や、自分の中の何かが大きく音を立てて変わろうとしている。
 例えていえば、もう殆ど一杯になった水瓶にあと一滴の水が加われば、瓶の水は満杯になって溢れ出す―そういう感覚だ。その一滴の水が何を意味するのかは美奈恵にも判らない。
 が、剛史との関係が変わってしまえば、その変化そのものが一滴の水になりかねない。溢れ出した水は一体、どこに向かうのだろう。変わってしまった二人はどうすれば良いのだろうか。きっと互いに顔を合わせることすら気まずくなってしまうに違いない。
 でも、そんなのは嫌だった。剛史とはずっと今のままでいたい。少なくとも友達でいる限りは、彼の側にいられる。たとえ契約が完了したとしても、また彼と話したり、その笑顔を見ることは許されるのだから。―少なくとも、心はどのように揺れ動いても、表面では何事もなかったような表情で。
 たった一度の過ちで彼と永遠に別れることになるのは絶対に避けなくてはならないのだ。  
 だが、これも一つ、けして割り切れない疑問が残った。
 何故、剛史は私にキスなんかしたのだろう? その問いは絶対に剛史に訊ねられるものではない。口に出せないだけに、謎は生温いコーヒーに最後まで溶け残った砂糖の塊のように美奈恵の心の中にわだかまった。 

別離、それとも〜切な過ぎる夜に〜

 帰りはバスに乗った。三十三間堂前で降りれば、ホテルはすぐ先である。
 ホテルに帰った後、美奈恵は疲れを憶えて、ベッドに横になった。ほんの軽い仮眠を取るだけのつもりが、目覚めたときは既に窓越しにひろがる京の街並みは菫色の夜に抱かれようとしていた。
 室内を見回しても、剛史の姿は見当たらない。どこか一人で出かけたのだろう。考えてみれば、京都は剛史の故郷なのだ。行きたいところもあるだろうし、逢いたい人もいるだろう。なのに、この三日間というもの、始終自分がべったりと貼り付いていたのだから、思うこともできなかったに違いない。
 もう少し気を利かせ、彼を自由にしてあげるべきだったと今更ながらに後悔する。しかし、そんなことを考えもしなかったのは、剛史と二人きりで過ごす時間が本当に愉しかったから。だから、彼と離れたくなかったのだ。
 日中動き回ってかなり汗をかいた自覚があったので、浴室に行ってシャワーを浴びた。剛史もいないので、服は着ないで備え付けの籠にあった白いバスローブを纏った。髪も洗ったので、かなり気持ちもさっぱりして明るくなった。
 まだ滴の残る髪を清潔なタオルで拭いながら浴室から出てきた時、ソファに剛史が座ってるのを見て少しばかり愕いた。
「お帰りなさい」
 それから、バスローブ一枚きりの今の姿に気づき、羞恥に頬を赤らめた。
「ごめんなさい。眼が覚めたら、剛史がいなかったものだから、シャワーを浴びたのよ。今、着替えてくるから」
「別にそのままで良いよ」
 剛史はたいして興味もなさそうに投げやりに言う。その反応に、美奈恵は心が見る間に冷えていった。
―そうなんだ。こんな格好を彼に見られてと狼狽えるのは私だけ。大勢の素敵な女性と過ごしてきた彼には面白くも何ともない光景にすぎないんだわ。
 剛史が拘らないというのなら、別に自分がそこまで気にする必要もない。美奈恵は頷くと、バスローブ姿で剛史の隣に少し距離を置いて座った。大原のホテルは二室あったが、ここは一室だけだ。
 入り口近くにクローゼットがあり、次いでダブルベッド、奥がちょっとした応接コーナーになっており、テレビとテーブル、ソファがそれぞれ一つずつ配置されている。更にそこからは大きく取られた窓ガラス越しに京都の夜景がははるかに臨めた。
「美奈がシャワー浴びている間に、ルームサービス頼んだんだ。それとも、どこかに呑みにいく方が良かったかな?」
 美奈恵は笑って首を振った。
「もうシャワーも浴びてしまったし、今夜はどこにも行かないで二人でゆっくりと過ごしたいわ」
 言ってしまってから、自分の言葉に今更ながら紅くなる。?今夜はどこにも行かないで二人でゆっくりと過ごしたい?だなんて、聞きようによっては、かなり積極的だ。もっとも、剛史の今の気のなさそうな態度では特に心配する必要もなさそうだが。
「それは良かった」
 丸いガラステーブルの上には意外にご馳走が並んでいる。こんがりとほどよく灼けたマルガリータピザは予め適当な大きさにカットされて大皿に盛られているし、キレイにカットされたキュウリや人参、アボガドは大きなグラスにきちんと納まっている。
 サワークリームやクリームチーズが塗られたリッツには見た目も鮮やかなキャビアとミントの葉が添えられていた。その脇に繊細なワイングラスには深紅の薔薇を思わせる深いロゼワインが揺れている。よく冷えているのかグラスには水滴が浮いていた。
「凄い、何だか急にお腹が空いてきたみたい」
 最後の夜なのだから、気まずくだけはなりたくないと思い、美奈恵はわざと明るい声音ではしゃいだ。
「乾杯」
 カチリと軽くワイングラスを合わせ、美奈恵はワインをひと口含む。かなり強めのワインなのか、ひと口呑んだだけで咽が灼けるような熱さを憶えた。しかし、それも一瞬で、後は後を引かないワインの爽やかな甘さとほろ酔いしたときの独特の心地よさを感じる。
 美奈恵はよく呑み、笑い、喋った。元々、あまりアルコールに強い方ではない。グラスワインを一杯空にしただけで、もうかなりの酔いが回ってしまった。
 対する剛史は酒豪を持って任じるだけあり、流石に強かった。ワインを何杯飲んだか知れないのに、眼許がほんのりと染まっているだけで、殆ど素と変わらない。良い男が酔いに眦をうっすらと染めている様はなかなか絵になるものだ。何というのか、男の壮絶な色香を漂わせているとでもいえば良いのか。
 我が幼なじみながら、美奈恵は眼前の剛史の艶姿に見惚れた。そっと剛史の整った横顔を盗み見ながら野菜スティックに手を伸ばそうして、思わずふらついてしまった。