和尚さんの法話 「冥土の住人」
ということは、和尚さんが見た武士の霊は妄想ではなかったということの証明になりますね。
この話しとよく似た話しがありまして、和尚さんの寺の近所の人ですが、檀家さんとその方が知り合いで、宗派が違うけど家へ拝みに来てほしいというので行ったそうです。
そして拝んでいると、若い武士の霊が出た。切腹をした武士だそうです。
それでお勤めが済んで、家の人にお宅の先祖は武士でございますかと聞いたら、そうです、武士ですと。
何代もさかのぼると武士の家系というのも切腹をした人は一人や二人はいますわね。
和尚さんもそう思いながらも、そのなかに腹を切って死んだ武士が出てきますというと。
これもまたすぐに過去帳を出してきて、この人ですと。
家は、家柄がよく、家宝の村正の刀があったというのです。
その村正という刀が家宝として代々伝わってきたと。
これは妖刀だから抜いたらいかん、見たらいかんといわれてきていたので、蔵へ仕舞っていたというのです。
ところが、若い者は見たらいかんというと見たがる。
そして蔵の中でその若い息子がですね、腹を切って死んでいたというのです。
それが死ぬような動機もなにも無いはずなのに死んでいた。
見るなというのに、見たくなって、見ているうちに、妖刀だから魅入られて、死にたいという気持ちになって腹を切ったのじゃないかと、これは遺族の人の想像らしいのです。
これはやっぱり家宝だといって妖刀を置いていたらいかんというので、後に寺かお宮へ奉納したそうです。
こういうことを過去帳へ書いてあったそうです。
子の話しもたまたま過去帳に書いてあったので、和尚さんの見えた霊の証明になっているわけです。
だからたとえ武士であっても、武士が武士なりに武士の姿で、あの世にちゃんと居るわけです。歳もそのままでね。
武士ですから百年以上たっているからお爺さんになっているかというと、そうではなく、若侍は未だに若侍の姿のままでね。
『七分の一と七分の六の功徳の違い』
次に、和尚さんの和歌山の寺の下にある家ですが、その奥さんが、或る時相談に来て、そしていろいろと話しをしていると、其の人の後ろに男の子の霊が出てきたのですね。その子は子供の頃に死んでいる。
明治の終わりか大正の初めくらいの、姿かたちを見ますとね。
小学校に入るくらいの七、八歳くらいですね。
その子はしょんぼりとして、これはお経をもらってないか、忘れられているんじゃないかなという感じがしたそうです。
それで用事が済みましたので、見えたままのことを聞いてみたそうです。
それでその奥さんは、古い事はわかりませんので主人に聞きましょうということで、すぐに聞きに帰った。
そしてすぐにその主人が返事に来たのです。
それは私の父の兄弟ではないかと思いますと。
父は、男三人の兄弟で、父は三男ですと。
その父は歳をとって死んでいるんですが、その父の真ん中の兄弟が、小さいときに死んだというのを聞いた記憶があると。
その亡くなっている兄弟がどうかしましたかと。
和尚さんは、その亡くなっている子がお経を欲しがっていると思うと。
そのほとけさんは、本家さんがみているのだから、本家さんに勤めるように言ってあげなさいと。
それでその人は本家へ行って、報告に来たのです。
たしかにございましたと。
その子は池で溺れて死んでいましたと。
ところが、お勤めをするように言ったのですが、本家の兄嫁が、本家のことを言いに来るなというのです。
だから、あんなふうだからお勤めはしないと思いますと。
それだったら、貴方がたご夫婦で勤めてあげなさいと。
法事というのは、お経を読んであげるとか、お布施とかお供養とかですね、そういうことは100%死者のために死者の冥福のためにその費用を使っているわけですが、ところがお経にはそのうちの七分の一しかあの世へ通じないということになっているのですね。
残りの七分の六はどうなっているかというと、施主が受ける。
だから勤めてもらった霊魂より、勤めた施主のほうが、功徳が大きいわけです。七分の一と七分の六の違いがあるのです。
それくらいですから、あなたの功徳にもなるのだから、あなたは本家のお寺へ行って勤めてもらいなさいと。
そうしましたら、素直にそういたしますとそうしたそうです。
それから三カ月ほどたって、その奥さんが、用事ができて里へ帰ったそうです。
その里のお母さんというのが、信仰が深いそうです。
そのお母さんが拝んでいたら霊が下りてくるという人だそうです。
そういう人はよくございますね。
そして里へ帰ったらお母さんはたまたまお勤めをしていたそうです。
お経の邪魔をしたらいかんと思ってお母さんの拝んでる後ろでじっと待っていたのですね。
そしたらお母さんが拝んでいる最中に後ろを向いて、お母さんが男の子の声になってしまって、おばちゃん、おばちゃんと言いだしたのです。
奥さんは自分の母親のことはよく知っていますから、これはまた誰かの霊が憑いたなと思ったのですね。
それであんたは誰。あんたは誰と聞いたのですね。
霊は、僕は平八郎や。
本家の先祖は皆お経をもらうけど、僕は忘れられていたのですと。
だからいいところへ行きたい行きたいと思うけど、なかなか行けなかった。
なんとかしてお経をもらいたいと思って、おばちゃんに憑いていたらおばちゃんが勤めてくれたので、僕はそのおかげでいいところへ行けたのです。
今日は一言お礼を言いに来ましたと。こう言ったというのです。
それを和尚さんに報告に来てきくれたのですね。
その奥さんは、自分は信仰のある母に育てられたから、多少は信仰のことは知っているし、することもしてきましたけど、あの世があるのか無いのかということになったら半信半疑でしたと。
切羽詰まって、人からあの世があるのかと聞かれたら、ありますということは言えなかった。半信半疑でね。
ところが、このことがありましたから私は、腹の底からあの世がある、霊魂があると、いつも母が言っていたけど、確かに有ると。
これは平八郎の霊でなければ言えないことだからと。
これがもし、平八郎のことをお母さんに言ってあったら、平八郎の霊が下りてというのであれば、知っているわけだから先入観で言っているのじゃないかと疑うけれども、お母さんには平八郎の話しはしてなかった。
だから先入観が無いのです。
お経をもらってなかったので、いいところへ行けなかった。
お経をもらったので、いいところへ行くことが出た。
今日はそのお礼にきたと。こんなことは、お母さんは知りませんね。
だからこれは、平八郎の霊であってこそ言えることであって、なるほどこれは霊はあるのだな、ということがわかりましたと。
誰がなんといっても私は疑いませんと。そういって帰ったそうです。
そういうことで霊魂というのは絶対に在るのです。
あの世にも冥福というのがあるのですよね。冥土の幸福ですね。
幸福ばっかりならいいのですけど、不幸もあるのですよ。
例えば地獄。それから餓鬼。
そういうところへ落ちたら苦労しますね。
作品名:和尚さんの法話 「冥土の住人」 作家名:みわ