りんごの情事
「何言ってんだよ。俺が最初に付き合ったのは來未で、浮気相手は多々良のほうじゃねーか。」
「もう立場は逆転してるよ。大崎は多々良さんに甘えて、今度は私に浮気しようとしてる。でも、それは絶対長く続かない。大崎は離れていても頑張れないでしょ。」
「だから、おれはお前のことが…!」
その時、突然、來未のもとに影がさした。そして、人を殴るような鈍い音がすると同時に、大崎が倒れ込む音がした。
來未は、何があったのかと恐る恐る顔を上げる。目の前で大崎が頬を抑えた状態で尻もちをついている。そして、來未の背後の影を見上げると、そこには明吉がいた。明吉は不機嫌そうに大崎のことを睨みつけている。
「な、なんだよ、お前。」
びっくりした様子で大崎が明吉を指さしながら叫ぶ。
「俺は、訳あって名前を名乗れないが、東京から来た來未のいちファンだ!」
大崎を睨みつけながら、堂々と述べる明吉。來未も突然のことにびっくりしてしまい、言葉が出て来ない。
「は?いちファン?…は?來未、お前こそ東京でとっとと男作ってんじゃねーか!」
「ちがう!俺はまだ來未の男じゃない!來未はずっとお前のことを想っていた。でも。」
明吉は、しゃがみこむ來未の手を取って立ち上がらせ、自分のもとへ引き寄せた。
「お前には來未は返せない。來未があまりにも頑なにお前のことを想うから、一体どんな奴かと思っていたけど、女一人も大切に出来ない奴だったとはな!本当に好きなら、独りで東京に來未に会いに来いよ!」
大崎は明吉の迫力に圧され、びっくりして反論することすらままならなかった。噴水のざわめきも、けたたましい蝉の叫び声も、そして、夏の日差しでさえも明吉には敵わない。
「じゃぁ、オオサキクン、まずはタタラさんと仲直りすると良い。それでも、お前の心から來未が消えないのならば、本当にタタラさんと別れて、來未とよりを戻せばいい。來未がイエスというのならば。じゃぁな。オオサキくん。」
明吉はそう言うと來未の腕を引っ張って、走って公園を出ていった。そして、近所のファミレスに駆け込み、來未に冷たい飲み物を振る舞った。
「來未、あと一歩手前で熱中症だったんじゃないか?」
明吉に注いでもらった冷たい飲み物を飲み干すと、來未は意識が徐々に明確になって行くような心地がした。熱気で沸騰寸前だった頭がすっきりしていくようだった。冷房が入ったファミレスの涼しさも大変心地よい。
「もしかすると、そうだったかもしれないです。水飲んだら気分もさっきより良くなった感じがします。」
「汗もひどかったからな。手前で防げて良かった。」
「ありがとうございます。」
先程よりは楽になったとはいえ、まだ來未の頭はぼんやりしていた。
待ち望んでた時はあっという間に終わってしまった。あっという間過ぎて、感情が追いつかない。
ただ、その中に、嬉しさや幸福感といったポジティブな感情は存在していない。悲しさや虚しさ、憤りの方が多かった。
「來未、悪かった。ぶん殴ってやる、って言ってたけど、あれは冗談だったんだ。本当は殴るつもりもなかったし、しゃしゃり出るつもりもなかったんだ。」
「いえ、あれで良かったです。私も、ひっぱたきたい気持ちでした。」
そう言って來未はひとくち水を飲んだ。
そして、ゆっくりと息を吐き出す。ガスを抜くように、たまってしまった嫌な気持ちを吐き出す。
「目を覚ますことが、出来たんですかね。」
と、ぽつりと來未は呟く。明吉は冗談なのか、本気なのか、どっちともつかないような言い方で
「多分、目が覚めたなら、世界が変わってるはずさ。」
と言った。どこか悟ってでもいるような明吉のその様子が、來未には可笑しく思えた。と同時に、その言葉にすがりたくなった。なんだか顔が綻ぶ。
「…私、コーラ持ってきますね。」
「あ、俺持ってくるよ。もうちょっと休んでな。」
「すいません。」
明吉は席を離れ、ドリンクバーへ向かった。來未はその様子を見送ると、視線を空っぽになったグラスに移した。
氷ばかりが入ったグラスは、公園にいた來未のように汗をかいている。
これで良いんだ。來未は自分に言い聞かせる。來未はまだ高校生で、まだまだ先は長い。前に進んで行かなくてはならないのだ。明吉を見ていると、未来はキラキラしたものなのだ、と信じることが出来る。見ることは出来ないし、本当は信じることも出来ない未来だけど、輝かしい未来は必ずあるはず。
きっと明吉も不安の渦に包まれながらも、未来を信じてた。そして目指す未来を実現させた。なんて凄い人なんだろう。
「ほら、コーラ。」
明吉が來未のコーラと自身のカルピスを持って戻ってきた。
「ありがとうございます。」
「落ち着いたらホテル戻って休もうな。」
「はい…」
來未はコーラを一口飲んだ。炭酸が強く弾けてしゅわしゅわした後に、甘ったるい砂糖の味が広がる。炭酸の刺激に思わず來未は顔をしかめた。炭酸は今の來未にはちょっと刺激的すぎたかもしれない。
しかし、今再び一歩を歩もうとしている來未にとっては、すべてのことに痛みが伴う。