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りんごの情事

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 翌日、朝目を覚ましても、昨日感じた不思議な感覚はまだ続いているようだった。気晴らしに、昔野の家に行きムサシの散歩を申し出た。早朝の散歩は初めてだったが、夕方よりも早朝の方が涼しく散歩するのには都合が良い。
 夕方通る時と同じ散歩道を通る。夏休みの朝だけあって、どこも人通りが少なくひっそりと静まり返っている。ただ、朝でも日差しは強く感じられた。
 休憩箇所である河川敷も、夕方とは違って静かだ。ジョギング、ウォーキングをする人とすれ違うくらいで、清廉としている。
 いつもの河川敷で川を眺めながら休憩する。ムサシも大人しく來未に寄り添う。河川敷は夕方と違って静かだ。車の往来も少なく、ぼーっとするのにちょうどいい場所のように來未には感じられた。色んなデザインのジョギングウェアに身を包んだ人達が來未の前を通り過ぎていく。特に女性のジョギングウェアはピンクや黄緑など様々な色があって可愛い。最近はオシャレなジョギングウェアが沢山出回っているということを來未はいつかのテレビ番組で見たことがある。
 向こうの方から、黒っぽいキャップを被りオレンジのTシャツに、赤のハーフパンツを履いた青年が走ってくる。キャップには読売ジャイアンツのロゴが付いている。随分と派手な青年である。ムサシはその青年の存在に気が付くと、すっと立ち上がり、「わん」と一吠えすると尻尾を振りながら待ちかまえた。
 青年はウォークマンを聞きながら、ゆっくり速度を緩めると、ムサシの前でしゃがみこみ、その体毛を目いっぱいわしゃわしゃと撫でつけた。
「ムサシ、久しぶり!」
 撫でられて嬉しいのか、さらに尻尾を振るムサシ。この犬は人間が大好きだ。
「來未も、久しぶり!」
 ムサシを地に倒し、お腹の産毛を撫で尽くしながら、來未に向かって、榎本明吉は言う。相変わらず、日に焼けて太陽のように屈託のない笑顔だ。
「おひさしぶりです。」
 その明るさに引きずられて、來未も小さく笑みを浮かべる。明吉には梅雨の日以来に会う。昨日電話で声は聞いたけど。それでも、いつもと変わらない明るい明吉。昨日は申し訳ないことをしたな、と表情を曇らせそうになる來未だったが、ふと昨日明吉から来たメールを思い出した。
「あ、明吉さん、おめでとうございます!甲子園、進出したんですね。」
 と、來未が言うと、明吉は頬笑みを浮かべて大きくうなづいた。非常に感慨深そうな様子だ。
「御蔭さまで。なんとか最後の年で甲子園に出場出来て良かったよ。」
 明吉は、頑張っている。だからこの結果なのだ。ずっと頑張って来ていた。努力の賜物だ。來未はそう思うと明吉が甲子園に行けることが、なんだか自分のことのように嬉しく感じられた。
「あとは目指すは優勝だな。ここまで来たんだ。あとは突っ走るのみ。」
「優勝、出来るといいですね。りんご荘のみんなと応援してます。」
「あぁ。」
 ムサシの腹を撫でながら、明吉は答える。ムサシは腹を出して服従の姿勢になってしまっている。よほど気持ち良いのだろう。
「來未、あのさ、」
 明吉が言い淀んでムサシの方に視線をやると、表情はジャイアンツのキャップの鍔に隠れて來未からは見えなくなってしまう。
「昨日、なんかあった?」
 來未は昨日の大崎とのメールの件を思い出し、少々憂鬱な気分になった。思わず戯れる明吉とムサシから視線を外し、川の流れに目を向ける。このもやもやとした気持ちは勢いを増して白く濁って流れる川の流動態と似たような感じがする。來未は明吉からの問いに押し黙ってしまった。
「なんか、昨日電話した時、すげー悲しそうな声でさ。今も、遠目から見た感じでも、なんだかすごく寂しそうだった。本当に、大丈夫か?」
 來未自身は、動作に現れてくるくらい悲哀に満ちていたつもりではないが、他人の目を通してしまうと伝わってしまうくらい落ち込んでいたということを知った。感情は隠せている方だと思っていたが、どうやらだだ漏れらしい。また、明吉にばれてしまった。
「きゃ。」
 突然、來未の視界が薄暗くなった。
「朝とは言え、炎天下の中で考え事は危ないぞ。」
 來未は自分の頭を触ってみると、どうやら明吉が、自分の被っていたジャイアンツの帽子を來未に被せたらしい。明吉は帽子の上から來未の頭をぽんぽんと撫でつける。
「あと、俺は色白な子の方が好みかな。」
「日焼け止めくらい塗ってますよ。」
「ん、ならいい!」
 明吉は來未の隣にゆっくりと腰を下ろした。ムサシも來未の隣の明吉の隣に大人しくお座りをした。尻尾を振りながらひらひら舞うモンシロチョウを目で追っている。
 來未は大きくため息をついた。そして覚悟を決めた。
「昨日、正式に彼氏と別れました。」
「それって、この前話してくれた福井にいる・・・糞野郎のことか?」
「ふふふ。ええ、そうなんです。昨日彼からメールが来て、『別れよう』って。もう終わった関係だと思い込んでいたんですけど、でも、改めて言われると来るものがありますよね。」
 ムサシはモンシロチョウを目で追うのを止め、來未の方に視線を向ける。
「なんだかさみしいですよね。私のことを忘れて、向こうは新しい相手と新しい思い出を作っていくんです。まるで上書き保存されて、私とのことは消されていく、みたいな感じで。凄く悲しいです。」
 來未は自分でもびっくりするほど身の上を淡々と話していく。カタルシス効果とはこういうことか。
「私ってなんだったのかな、って思いますよ。だからですね、私、きっとしばらくは人を好きになれない。今ここで誰かを好きになったら、私もあの人と同じで、簡単に相手のことを忘れて、上書き保存していっちゃうんです。あの人と同じ薄情者になるんです。それは嫌なんですよね。だから私はしばらく人を好きにならないんです。」
 來未が一通り淡々と語ると、明吉は、すっと立ち上がった。來未が見上げると、明吉は苦虫をつぶしたような表情をして來未を見つめている。
「そんな男のために…。」
 明吉は小さな声で言い捨てる。來未は、表情を変えることなく、キャップを外し、明吉に返そうとする。明吉は一度それを受け取ったが、またすぐに來未の頭に被せた。來未の視界はキャップの鍔に遮られる。
「來未、それ、甲子園が終わったらすぐに返してくれ。」
 明吉は再びしゃがんで、「またな」と言って両手でムサシの頭を掴むように撫でる。
「あと、來未、甲子園に、応援に来てほしい。昔野さんやニタや兄貴達と一緒に来てくれ。俺は來未が好きだ。」
 そう言い残すと、明吉は再び走りだし、去って行った。
 ムサシがその後を追おうとしたが、來未が立ち上がらず、動かない様子を感じ取ると、すぐに戻って来た。來未はキャップを被り直して視界をすっきりさせると、ゆっくりと立ち上がり、ムサシのリードを持って歩き出した。わずかに日が高くなり、ちょっとだけ暑くなってきた。


作品名:りんごの情事 作家名:藍澤 昴