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りんごの情事

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第6話



「体育祭、どうだったの?」
「体育祭はですね、楽しかったですよ。私は保健委員だったので、救護の方に徹してましたけど。あ、龍君が1日目に軽い熱中症で運ばれてきました。」
「龍、あいつ何してんだよ。」
 明吉は苦笑しながら來未の話を聞く。
 暑さが増してきた5月の下旬。いつもの河川敷で明吉と來未とムサシは雑談していた。
 來未は今日はチョコチップ入りのパウンドケーキを作った。明吉は先々週と同様非常に美味しそうに食べてくれた。帰ったら仁田村にも渡すが、仁田村は今大学の課題制作とバイトでてんやわんやである。
「でも、軽かったんで次の日は普通に暴れてましたよ。」
「一日は無駄になったのか。」
「まぁ、そうですね。」
 それでも龍が救護室まで運ばれてきた時、來未は大変驚いた。熱中症に関しては、発症しないように保健委員会の方でも色々対策を講じてきたのだ。それにも関わらず熱中症になってしまった龍はどれだけ体育祭にムキになっていたのだろうか。
 保健室で休んでいた龍はせっかくの体育祭に参加出来なかったことをひどく残念がっていた。
「でも、最近暑くなってきたよな。6月に入るとはいえ、暑すぎるよな。」
「そうですね。本当に暑いですよね。まだ福井の方が涼しい様な気がします。」
「へぇ、福井は涼しいのか。」
「いえ、そんなに涼しくはありませんが、東京が暑すぎるような気がします。だって、まだ5月ですよ。」
「そうだな。もう夏の様だもんな。でも、夏はもっと暑いぜ。」
 來未は夏の暑さを想像し、憂鬱な気持ちになった。來未は暑さが苦手なので、夏はそんなに好きではなかった。
「來未は暑いの苦手そうだな。」
「わかります?暑いのは得意じゃないです。でも、明吉さんはなんだか夏が似合いそう。」
 そう言われて明吉は、嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。來未から見て明吉の明るさや野球に対するひた向きさは、まるで夏の太陽の様に明るく、強い印象がある。
「ああ、俺は夏が好きだな。夏生まれだし。暑いのも嫌いじゃないな。まぁ、寒いのは苦手だけど。」
 來未は寒さに凍える明吉を想像して、一人でほくそ笑んだ。明吉にその想像は伝わったらしく、「來未、お前、今何を想像した?」と笑いながら、小突いてきた。
「ふふふ、秘密です。ね、ムサシ。私たちは寒さに強いんだよね」
 來未はくすくす笑いながら、ムサシの目線までしゃがんで包み込むように頭を撫でる。ムサシは気持ちよさそうに首を伸ばして目を細めた。そんな様子を明吉は微笑ましく見守っていたが、ふと思い立ったように口を開いた。
「來未、キラキラしてるな。」
 來未ははっとして明吉を見上げた。明吉は少しだけ安心したような表情を浮かべて來未を見つめている。「キラキラしてる」だなんて來未には似つかわしくない言葉だ。來未自身はまだ全然熱中出来ることもないし、ただ漫然と高校生活を送っている。明吉の様に目的に向かって一生懸命生きているわけではない。
「ニタさんと一緒にあった時は、なんだかこの世の終わりのような雰囲気だったけど、どうやら『なんとかなり』つつあるみたいだな。学校、楽しそうで良かったよ。」
 來未の悲しみは仁田村だけでなく、明吉にまで気付かれていたらしい。來未は恥ずかしさに包まれ、思わず下を向いて明吉から視線を反らしてしまった。確かにここ最近の学校生活は楽しかった。学校生活が楽しかったからこそ、忘れることが出来たのだろうか。
彼のことを。
 仁田村はまるで姉の様に付き添っていてくれた。家族の様に近しい存在に感じていたからこそ、日本語になっていない言葉だったり、脈絡なく感情のまま話したり、何を話しても良い様な気がした。この話を赤の他人である明吉に話すことは、たぶん色々考えて話すことになるから、仁田村に話すこととはまた別の形で気持を解消することが出来るかもしれない。來未はそう考えて、顔をあげて立ち上がった。
 明吉は当然のごとく驚いた様子で來未を見つめていた。
「私、付き合ってた人がいたんです。」
 だが、來未は淡々とゴールデンウィークのあの日のことを語った。思いの外言葉はあっさりと出て来ることは驚きだった。仁田村に話した時はまるで喉からナイフが出て来るかのように痛くて苦しかったのに。なんだか不思議な感覚だ、と來未は思った。
 明吉は來未の話を真剣な眼差しで傾聴していた。驚いていたのはほんのわずかであった。
「こんな感じです。今はニタさんがいてくれたので、おかげさまで楽しくやってます。」
 無表情の明吉は何を考えているかわからず何となく怖い、と來未は感じて、笑顔を取り繕って見せた。
「來未はその男と話はしたのか?」
 落ち着いた明吉の声。來未の愛想笑いに明吉はつられることはなかった。
「え、いえ、してないです。ただ、福井の友達からメールで教えてもらって知った事実だったので、私からは何も。自然消滅って形なんですかね…。」
「來未はまだ、その男のこと、好きなのか?」
 來未は閉口した。そのあたりはまだ整理出来ていない。時の忘却差装置がなんとかしてくれるだろう、と來未は思っていたからだ。
「いや、これは答えなくていいや。」
 そう言って、明吉はにっこりと笑った。
 そして、先々週と同じく來未の頭をポンポンとなでつけた。
「話してくれてありがとう。來未の様子が気になってたから、聞けて良かったよ。しんどかったな。」
 明吉のごつごつした大きな手が心地良い。どうしてか安心するお兄さんのような明吉の手。
 仁田村が來未の姉だとしたら、明吉は來未の兄になるのかもしれない。
 それから、少しお喋りをして、二人は解散した。
 河川敷から見える夕焼けはいつも眩しい。だが、美しい。燃え上がるような茜色の空は、心のすべてを燃やし尽くして浄化してくれそうなほどに、幻想的だ。

 來未は帰路に着きながら、明吉の言葉を思い出していた。
――來未はまだ、その男のこと、好きなのか?

 來未は彼のことを忘れたいとは思っている。
 だけど、心の中では、連絡が来て楽しくおしゃべりが出来る時を望んではいた。
 一度好きになった相手なのだ。そうすぐには嫌いになれない。
 だけど、一刻も早く忘れて前に進んでしまいたい、と來未は考えるのだった。答えは、出ない。





***************

りんご荘に戻ると、政宗がちょうど帰ってきたところだった。先々週もあったので、政宗は日曜日はこの時間に一旦帰宅するのだろう。
「やぁ來未ちゃん、お元気?」
「ええ。元気ですよ。政宗さんもいつもお疲れさまです。」
「ありがとう。本当に疲れたよ。でも來未ちゃんに会ったから元気が出た。」
 政宗は屈託のない笑顔を浮かべる。政宗はリップサービスが上手な人間だ。この件に関して來未は仁田村から「政宗は時々歯の浮くようなことを言ってくるけど、ただへらへらしてるだけだから、気を付けて。あいつの言葉は信頼に足らない時がある。」と注意をするように促されていた。
「政宗さんの元気の源になれて、良かったです。」
 來未は政宗に会うと社交辞令が上手になりそうな気がした。
 政宗は來未の後ろに隠れるムサシを見つけると
「今日も散歩?」
と聞いてきた。ムサシは未だに政宗を苦手としていた。
作品名:りんごの情事 作家名:藍澤 昴