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りんごの情事

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 灰冶とは、りんご荘201号室に住む男性のことである。政宗は「えー面倒臭い」と不満を漏らしたが、仁田村に促されて、しぶしぶ灰冶を呼びに出て行った。

「よし、変態はいなくなったわね。じゃぁ、くーちゃん、改めて聞くけど、くーちゃんって彼氏いるの?」
 アリスからの質問に、來未は一瞬びっくりしたような表情を見せ、そして強張らせた。言葉を出そうと思うのだが、思いが言葉になって出て来ないのだ。
「…え?くーちゃん、どうしたの?」
 仁田村は來未の異変に気付いた。しかし、仁田村自身は來未に彼氏がいるなんて思っていなかった。なぜなら一度もそのような話を聞いていない上に、そんなそぶりも見ていなかったから。なにを隠し抱いていたのか、仁田村は來未の様子を注視した。
「うーん、いるような、いないような」
 ぽそりと呟く來未。
「え?え?え?くーちゃん、それどういう意味?」
 動揺を隠せない仁田村。これまで一番來未の近くにいたのだ。最近は本当の妹のような心地さえしていたから、この來未の様子を心配せずには居られなかった。
「もしかして、福井に、いるの?」
 來未は口を開こうとはしなかった。そのかわり、にっこりとほほ笑んで、「あ、そうだ、灰冶さん、いらっしゃるんですよね。じゃぁ、灰冶さんの分も準備しなきゃ。」と言って、立ち上がろうとしたが、アリスに抱きつかれる。
「だめよ、くーちゃん。逃げちゃだめ。お姉さん達にちゃんと話しなさい。灰冶も結構付き合い悪いから、来るかどうかも分からないんだし。」
 來未は観念したように大きなため息をひとつつくと、再び元の場所に座り直し、言葉を紡ぎ始めた。
「一応、福井にいるんですけど、ちょっと最近、付き合ってるかどうかよくわからなくなっちゃって。」
「連絡は?」
「時々メールをするくらいです。電話は全然繋がりません。だから、なんだか最近嫌われちゃったのかなって思ってて。」
「それは…」
「最近は部活で忙しいみたいなんで仕方がないのかもしれませんが。あと、引っ越す前に、私達喧嘩したんです。一応仲直りしたつもりなんですけど、なんかぎくしゃくしちゃって。それで突然の引っ越しだったので、私、彼には何も言わずにいなくなっちゃったんです。しばらくは音信不通だったから、きっと私が悪いんです。」
「でも、くーちゃんは悪くないよ。」
「悪いのは彼氏だよ。こんなかわいい子をほったらかしにするなんて!むしろ愛する彼女から連絡が来て、嬉しくない男はいないよ!」
 仁田村とアリスの意見を前に、來未は微笑む。どことなく寂しさを湛えた頬笑みだった。
「距離が離れたら、きっと心も離れちゃうのかもしれないです。」
「くーちゃん、ちょっとケータイ貸して。ちょっとニタが電話かけて叱ってやるから!」
「きっと、彼、出ませんよ。それに、今日は…」
 淡々と語り続けてきた來未だったが、そこまで話すと、俯いて言葉にするのが億劫そうにして口を噤んだ。
「今日は?」
 仁田村とアリスは來未の顔を覗き込む。來未は顔をあげると、にっこりほほ笑んで見せた。そして、「今日は、まぁ、何でもありません。本当に、なんでもないんです。」
 アリスは何かを言いかけた來未に、すべて話してもらおうと促そうとするが、仁田村がアリスの肩を掴み、止めた。
「くーちゃんが言いたくないことまで、全部話す必要はないよ。話したくなったら話せばいいし。クーちゃんが言うんだから、今日は何もなかったのさ。」
 と、仁田村は言い、おつまみの袋を開けた。
「まぁ、そうねぇ。」
 アリスも仁田村の言葉に落ち着きを取り戻し、仁田村が開けたおつまみを頬張った。
 そしてちょうどいいタイミングで灰治を呼びに行った政宗が戻ってきた。
「ただいまー。灰冶、いなかったけど、ちょうど外で天花とあったから、連れて来たよー。」
 と、政宗は言いながら、天花を連れてきた。天花はお土産に餃子を持ってきた。天花のバイト先は中華料理店で、アリスはそこの餃子がお気に入りだった。
 餃子とお酒は相性がいい。酒盛りは夜更けまで続いた。

*************************



 翌日は、來未と仁田村で、代官山にあるというスイーツの店に出かけた。以前から、計画していたのだ。
 アリスはこの日、大学時代の友人とご飯を食べに出かけて行った。政宗や天花はバイトだ。
 東京に住んでようやく1ヶ月経ったが、來未はどうにもこの人ゴミには慣れなかった。特に今はゴールデンウィークで物凄い人の入用だ。駅も電車も混んでいたし、目標のお店も、よくテレビで紹介されていた話題の店であるため長蛇の列が出来ていた。
「いやぁ、話には聞いていたけど、こんなに混んでるとはなぁ…。」
「うん、凄い…。」
 とりあえず二人とも店先から最後尾まで移動してみたが、最後尾で列整理を行っていた店員から、「あと2時間お待ちいただくことになります」と言われ、そんなにかかるのか、と顔を見合わせた。仁田村は、
「じゃぁ、また別の機会に…。」
 と愛想よく笑って、來未と共に立ち去った。駅に向かって来た道を戻ることとなった。
「いやぁ、あんなに混んでるとは思わなかった。まぁ、他にもお勧めのお店はあるから、そっちに行こう。」
「はい。」
 二人は電車で二駅ほど移動した。ゴールデンウィークであるから、万が一のことを考えてもう一軒別のスイーツのお店も選んでいたのだ。こちらは、テレビなどでは紹介されたことはないが、隠れ家的とも呼べる仁田村のおすすめのお店である。
 駅の改札を抜け、外に出た時、來未はあり得ないものを見かけてしまった。
 ここでは絶対に見ないであろう存在が、目の前を歩いている。こんなに沢山の人であふれかえる東京で、來未はたった一人の青年の姿を発見してしまった。來未の故郷に残してきてしまった恋人、大崎信吾だ。
 声をかけようと思ったが、隣には女の子がいた。彼女のことも、來未は知ってる。1年生の時は隣のクラスだった多々良さんだ。多々良さんは大崎と異常に仲が良い。というよりも、終了式前に大崎が浮気していた相手が、この多々良さんだった。來未は他人の空似だと思い込もうとしたが、案内板の前に佇む青年の面影は、間違いなく大崎信吾だった。
 実を言うと、大崎が多々良さんを連れて旅行に行くという話は、來未はつい最近福井の友人からメールで知っていた。友人から、大崎が多々良さんを連れて旅行に行くと知った時は、來未は本当にショックでその日は何もできなかった。昨晩、仁田村とアリスに恋愛事情を聴かれた時に、この話だけはどうしても出来なかった。言葉に出すことすらおぞましいと感じていたのだ。
 しかし、東京に来るということは友人からは伝えられてないし、大崎本人からも聞いていない。どうして偶然にも出くわしてしまったのだろう。噂として耳にするよりも、実際に視覚で感じる方が、衝撃は甚大だ。
 仁田村は一瞬にして青ざめる來未に首をかしげる。歩みを止めてまで見つめるその視線の先には、おそらくうら若い男女のカップルが案内板に屯している。多分、來未と同じ高校生だということは理解できた。どこかにいこうとして、地図を確認しているみたいだ。
「くーちゃん、どうしたの?」
作品名:りんごの情事 作家名:藍澤 昴