りんごの情事
仁田村が心配そうに來未に声をかける。來未は、心配かけるのは良くないから、なにか反応しないと、と気持ちが急くのだが、行動に伴わない。脳から出される指令が、何かの絶縁体によって阻害されているように言葉が出てこないし、体も動かない。
「おーい、大丈夫?」
仁田村が、來未の視界を遮るように、覗き込んできた。ここで來未の視界からあの二人が遮断され、來未の次の行動を考えるプログラムが作動し始めた。來未は、仁田村の不思議そうな瞳に焦点を合わせると、震える声で
「私、前に行ったあの駅前の喫茶店に行きたいです。」
と、言った。
とにかく、この場からいなくなりたい。來未は、もう逃げたくて逃げたくて仕方がなかった。今目の前に見えていることが現実のものだと受け入れたくなかった。
「まぁ、あそこもケーキがあるっちゃあるけど。」
仁田村は來未の様子を見て、首をかしげたが、來未が珍しく主張するのなら仕方がないと思い、了承した。いったい何があったのかは分からないが、きっと駅前の喫茶店に行ったら話してくれるだろうと思い、リンゴ荘方面へ戻ることとなった。都心のスイーツはまた今度である。
電車を乗り継いで、いつもの駅前に戻り、あのひっそりと佇む喫茶店にて腰を休めた。
この喫茶店は、基本的に珈琲がメインのお店なので、ケーキはホットケーキの1種類しかない。仁田村はとりあえずドリンクもつくホットケーキセットを2つ頼んだ。2人分のコーヒーは間もなくしてテーブルに届いた。仁田村がコーヒーカップを手に取ると、來未は小さな声で
「ニタさん、すみません…。」
とつぶやいた。
両手でコーヒーカップをすすりながら、仁田村は來未を見つめる。
「私、ちょっとびっくりしちゃって…。」
もし、都会の話題のスイーツのお店にいたら、オシャレなバックグラウンドミュージックと、女性達の華やかなおしゃべりで、來未の小さな声はかき消されていたかもしれない。BGMも控えめで、客もいないこの喫茶店だからこそ、來未の声は聞き取れた。
「昨日お話しした福井にいるはずの彼氏…みたいな人が、さっき、いたんです。」
「うん」
仁田村は來未の話の内容に驚いたが、喫茶店の窓から差し込む西日が眩しいとも思った。もういつの間にか夕方だ。
「実は友達からメールが来てて、ゴールデンウィーク中に大崎が女の子と旅行に行くというお話を聞いていました。やっぱり、二人の間の距離が、心の距離も遠ざけてしまったんだなぁ、と思い、とても悲しかったです。でも、まさか東京に来てたとは。そんなことは私は知らなかったです。もし近くに来てるならば、連絡くらい欲しかった。こんな形ではなく、会いたかった。どんな話をされてもいいから…」
來未は静かに目を閉じた。震えるまつ毛からは一筋の涙もこぼれない。
來未はテーブルに肘をついて何かにすがるように手を組んで、額を乗せて俯いた。
仁田村はコーヒーをすすりながら、來未の言葉を待ち続ける。仁田村の友人は悲恋の末、感情に任せて涙を流した。仁田村は子供っぽくも案外冷静な面もあるので、おそらく感情に任せて涙を流すことはしないだろうが、ただ、その気持ちは痛いほど分かった。行き場をなくした感情は心から洪水のごとく溢れ返り、荒れ狂っている。世界が己で閉じてしまっているのならば、その濁流は個人の中で慄き猛り続けるだけなので、誰かが世界への扉を開いて排水してやらねばならない。
仁田村の世界は、あいにく、それを受け入れる余裕がある。
來未は、小さな声で言葉を紡ぎだした。
「昨日、アリスさんとニタさんにお話しした時に、このことだけはどうしても話せませんでした。ニタさんが、アリスさんを止めてくれた時、正直安心はしました。でも、現実は現実として受け止めるためには、私はこのことを話すべきだったのかもしれません。私は怖くて目をそらし続けていました。」
それは悪かったな、と仁田村は思った。ただ、あの時の來未があまりにも苦しそうだったから、仁田村は無理強いをさせたくなかった。
アリスは無神経そうに見えて賢い人だ。酔っていたとは言え、來未の様子には気付いていて、暴露させてしまうのが得策だろうと本能的に気付いたのだろう。アリスのそういうところが仁田村には羨ましく感じられる。
「私だけ好きだったなんて、バカみたい。」
來未はそう吐き捨てると、長いため息をついた。
しばらく沈黙が続いた。そのうちに仁田村のカップは乾いた。底に残った干からびたコーヒーの環を見つめながら、「バカなのは向こうだよ。くーちゃんの愛を受け取れる器じゃなかったんだ。そのうち、くーちゃんを受け止めてくれる人は出て来るから、そんなやつのことは忘れるべきだよ。新しい可能性にかけるべきだ。まだクーちゃんは若いのだから。」と言った。
來未の頬からは一筋の涙が伝う。
「忘れることができるならば、早く忘れたいです…。」