りんごの情事
第1話
さて、來未が東京に越してきてから3日が経った。
東京ということで、來未はそれなりの覚悟を決めていたが、都心から離れた郊外にあるので、そんなに都会めいた感じはなかった。地元と変わらない印象さえ受ける。
そして、今彼女が住んでいる場所の方が、前住んでいた家よりもかなり劣っている。
剥き出しの鉄骨でできた階段が外にあり、今にも崩れんばかりの外観を装った、昭和の雰囲気がぷんぷん漂う、二階建てのおんぼろアパートである。
しかもこのアパートの名前が「りんご荘」ときたものだから、ますます昭和浪漫を感じずにはいられない。
両親は大切な一人娘を、一体どういった理由で、こんなおんぼろなアパートに住まわせようと思ったのだろうか。
しかし部屋はリフォームしたらしく、意外ときれいなのだが(トイレ、風呂はもちろんついている)、他の部屋の住人を未だ見かけたことがない。
來未は部屋を出て、鍵を掛けた。そして、チラッと隣家のドアを見た。
來未の部屋は204室で、一番端っこだが、隣りの203室には表札が掲げられていなかったので、誰が住んでいるのか分からなかった。
だが、この3日間、誰かが帰ってきたという気配はなかったので、誰も住んでないのかもしれない。
さらに隣の202室、201室も見てみたが、表札は掲げられてはいるものの、字が薄くて全く読みとれない。やはりこの部屋も誰かが帰ってきたという気配はなかったので、誰も住んでないのかもしれない。
來未はほんの少しだけ、寂しくなった。両親からご近所さんに配りなさいよ、と包みを渡されていたが、このアパートには誰一人として住んでないようなので、配る機会がなく、部屋の隅に積まれたままである。
なんだかどうしようもないので、帰ってきたら包みを開けて、自分のモノにしてしまおう、と來未は思った。
いつか折れてしまいそうな、錆だらけの階段を下り、來未は散歩に出かけた。
「あ、栗山の娘さん、おはようございます。」
管理人の昔野だ。
りんご荘のすぐ傍には、管理人の昔野が住む住居がある。
この家もトタン張りの平屋という風貌で、りんご荘に負けず劣らずの昭和浪漫を漂わせている。
また、この昔野という管理人は、來未の両親がかなりの信頼を寄せる人物である。
ボサボサの頭によれよれの服を着ていて、かなりだらしなく見えるのだが…。
「おはようございます」
「どうですか、娘さん、新しい生活には慣れましたか」
「…えぇ。慣れました。」
本当は慣れてなどいなかったが、來未は、昔野が両親に近況報告したりする時のことを考えて、嘘をついた。
「無理しないでください。初めての1人暮らしは誰だって大変なものなんですから。」
「はい…。」
昔野の言葉に、來未はなぜだかくすぐったさを覚えた。
「困った時は、何時でも相談に来てください。あとりんご荘の皆さんも、個性派揃いですが、良い人達なので、相談に乗ってもらってもいいでしょう」
「はい…。……って、りんご荘に人が住んでるんですか」
「それは当然でしょう」
ボサボサの前髪に隠れた昔野の表情を読み取ることは不可能だったが、声は明らかに不思議がっている。
「で、ですよね。あ、あの、表札に名前もないし、私が越してきてから、誰一人として出入りする気配がないので、つい…」
「まーだ名前を書いてないんですか、あの人たち。何回も書けと言ってるんですけどね。…あ、多分今住人のみなさんは旅行に行ってます。私の犬も一緒に連れて行ってくれたんですよね。確か皆さん今日の午後に帰ってくるはずですよ。」
「そうなんですか。」
「はい。まぁ、帰ってきたら帰ってきたでうるさいですけどね。」
「はぁ…」
「これからおでかけですか?」
「あ、はい、少し散歩に。」
「そうですか。それでは気をつけてくださいね」
「はい…」
來未はほっとため息をついた。ここに来て初めて安心を感じたのだ。その安心感はりんご荘には住人がいるということを知ったから感じられたものなのか、または久々に誰かに面と向き合って話せたことに安心したからなのか。
いずれにせよ、こんな短時間で気分を晴らすことが出来たのは嬉しいことである。
來未は少しだけ足取り軽く、散歩の道を辿った。