りんごの情事
第0話
「じゃぁね〜また来週!」
「バイバーイ!気をつけてね〜」
「來未こそ、気をつけなよ〜」
「アハハッ!それじゃねー」
女子高生たちの何の変哲もない別れ際。
彼女達は今日終業式を迎え、その帰りにカラオケに寄って十分に楽しんだ直後である。
その中の一人だけ、仲間達とは逆の方向へと帰路を辿るのは、栗山來未だった。
カラオケの熱気冷めやらぬままに、道中一人で余韻を楽しんでいた。
高校に入って一年が経とうとしているが、良い友達にも恵まれて、楽しい高校生活を送ることが出来ている。なんと喜ばしいことではないか。
二年生になっても、この愉快な仲間達と同じクラスで過ごせれば、また楽しい毎日を送ることが出来るだろうに。満ち足りた現状に來未はしみじみとするのであった。
時刻は21時をまわっていた。
長い時間楽しんでしまったが、仕事で忙しい両親はまだ帰ってきてはいないだろう。
むしろ出張続きで家を離れてばかりなので、家にいること自体がありえない。
だが、家に着くと、明かりが着いていた。來未は首を傾げつつ、鍵を開けようとするも、鍵は開いていた。何か嫌な予感を感じつつ扉を開け、おそるおそる「ただいま…」と言って、家の中に入る。
「くーちゃん!遅くまで何してたの?」
途端に浴びせられた怒声に來未は体をすくめた。
ゆっくりと顔を上げると、玄関先に來未の母親が仁王立ちで立っていた。そして、その後ろには父親も同じく仁王立ちで立っていた。
「…友達と…カラオケに…」
ぼそぼそと來未が答えると、母親は金切り声で
「まぁ!くーちゃんってば、パパとママの帰りが遅いから寂しくてグレちゃったのね!ごめんねくーちゃん!寂しい思いをさせて」
と言って、來未を優しく抱きしめた。
一方の來未は、母親の腕の中で、大きすぎる母親の愛情にうんざりしていた。
「さ、中に入りましょう。くーちゃんに大切な話があるの」
そうして両親の後を着いてリビングへと向かう。
が、リビングに入った途端、來未は大きく目を見開いた。
「…これは…一体どういいこと…!?」
來未の眼前から食器棚もソファもテレビもテーブルも何もかもがなくなっていたのだ。
リビングからいつも見慣れた家具が消え、フローリングと白い壁だけがむき出しとなり、伽藍としている。
來未は顔面蒼白となってリビングを飛び出し、隣の客間を見に行った。次に台所。そして二階にある両親の部屋、自分の部屋も見に行った。
だが結果は「何もない!」
どの部屋にも、家具という家具は存在しなかった。
來未は呆然として何もない自分の部屋に立ち尽くした。
「なんで…?」
終業式を終え、カラオケで遊んでる間に、いったい何が起こったのだろうか。両親も珍しく家にいる。全く理解できない状況に、來未の頭は混乱するばかりだった。
ふと気がつくと、両親が來未の部屋の中に入ってきていた。にこにこと笑みを浮かべて。
「ママ!これはどういうこと?」
「今から話すわ。パパ、お願い」
「よし」
父親は母の前に出て来て、家中の家具がなくなってしまった理由を、ゆっくりと落ち着いた口調で語り始めた。
「くー、私達は今日を持って、この町とサヨナラをしなくてはならなくなったんだ」
「え」
「パパとママはな、これから二年程アメリカで仕事をしなくてはならくなったんだよ」
「それって、引っ越し?」
「あぁ、そういうことだ」
「何時、なの?」
「今夜だよ」
「…今…夜?」
「あぁ、今夜だよ」
あまりにも急すぎる両親の決定に、來未は驚くよりも先に、怒りを感じた。
今まで仕事ばかり優先して、ろくに面倒も見てなかったくせに、何故今になって突然保護者ぶるのだろう。しかも何の相談もなく、こんなに突然引っ越しだなんて、訳が分からない。
相談があれば、來未は一言「今まで1人でやってこれたんだから、一人暮らしも大丈夫」と言って、残ることが出来たのかもしれない。
そうでなくとも、せめて友達にサヨナラを言うことは出来たはずだ。まさか今日の何の変哲もないカラオケが最後の時間だったなんて誰も予測できまい。
來未は泣きそうになった、が、決して泣くまい、と涙をこらえた。
「ごめんな、來未。でも二年だけだから、な、大丈夫だ」
その二年間、來未がいない間に、きっと手遅れになるほど全てが変わってしまっているにちがいない。
しかし、次の父親の話を聞いて、來未は愕然とするのであった。
「パパとママも寂しいんだ、“來未と離れる”のは。でも2年間だけだから、大丈夫。2年したらすぐに“來未の所に帰ってくる”からな」
來未と離れる?
來未の所に帰ってくる?
「ちょっと待って、パパ。どういう意味?私はこれからどこへ行くの?」
「來未は、東京だよ。東京にいる僕の知り合いの近くだよ。流石に一人残すのは心配だからね」
「で、でもパパとママはアメリカに行くんでしょ?それなら私も…」
「いやぁ、來未は甘えん坊だなぁ。でも、かなり大きなプロジェクトだから、パパとママはロクにおうちに帰れなくなっちゃうんだよ。1人でアメリカに住むなんてさみしいだろう。だから來未は東京でお留守番」
「…東京で?」
「そう、東京で。なぁに、心配するな。学校の編入手続きも終わったし、アパートも借りてあるから大丈夫」
「え」
一人暮らしなら、別にこのままひっこさなくても良かったのではないのだろうか、と來未は思った。慣れ親しんだ地元から離れるのも嫌だったし、友達と別れるのも嫌だった。アメリカに行こうが東京に行こうが、地元を離れてしまうならどちらでも同じだ。
だが、こんな両親の身勝手さに、もはや來未は怒りを越えて呆れるしかなかった。怒る気力もすっかり失せ、來未はこの後何一つ言葉を発することもなく車に乗り込み、東京へ向かったのである。
車内では両親は楽しそうに喋っていたが、來未はずっと外の景色を眺めていた。
サヨナラも言わずに友達と別れてしまったことももちろん來未の悲しみの一つではあったが、もう一つだけ気がかりなことがあった。
だが、そのことはまだ述べないことにしよう。もはや手遅れなのかもしれないし、地元を離れてしまう以上、すでに終わったことになってしまっているのかもしれない。極力、そのことに関しては思い出さないことにするが、東京に着いたらすぐに友達に手紙を出そう。などと、色々考えているうちにいつのまにか來未は眠っていた。
すべてが嘘だったという夢を見て、夢の中だけでは幸せだった。
車は戻ることなく大都市東京へと向かい続ける。