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和尚さんの法話 「布施」

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(今の逆ですね。泥を求められて黄金ように思ってあげないけど、この場合は黄金をあげるのに木を端をあげるような心であげるんですから。極端な二つの例をあげてみたわけです。)


若し、慳心多き者は財宝を失いて、心大いに憂い悩む。

(それはそうですね、惜しみの心の強い人が若し、お金でも落としたりとられたりしたら、それはもうそのことが気になって気になって悩む。)


若し、施しを為す者は受くるものを喜ばしめ自ら喜ぶ。

(人にあげて、喜んでくれたらその喜びが喜びだというのですね。

喜捨(きしゃ)という言葉がありますね。喜びを捨てる。

ですけれども、これは布施のことなんです。

この捨てるというのは要らんものを捨てるんですよね、大事なものは捨てませんね。

だから捨てるものに惜しみがないわけです。

布施はもらってもらうんですよね、その心境はあたかも物を捨てる気持ちで、執着せんとあたかも要らんものを捨てるような、それを喜びでする、ということです。

つまり、惜しみをしてはいかんというんです、喜捨というのは。

あたかも要らんものを捨てるようにね、惜しみが無いから捨てるんでしょ。

だから布施にもそれと同じように、喜んで惜しみも持たないで、あたかも要らんものを捨てるが如く布施しようと、そういう意味のことです。

だから慈悲の人がね、人に布施してその人が喜びますね。

それが自己満足じゃなくてその喜びを見て喜びと感じる。

人間の心というのは、ちょっとのことで違いが出てくるんでね。)

心無き者は粗食があってもなお飢えたる者にも施しをするにあたわず。

(仏教の信じる心の無い者は、粗末な食べる物があると、場合によっては犬にやってもいいようなご飯があると。ところがそこへ乞食が来るんですね。

ところがそれでもあげない。布施しないんですね、信心の無い者はね。

そういう粗食な物があっても、飢えた人があっても施しをしないんですね。

そういう犬や猫にやってもいいようなものがあっても、人にあげないんだから、況や立派なものはあげない。)


この人世間の糞土の水よりも得易き物なるをも、惜しみて人もこれを乞うつらなる惜しみを抱く。

(これは例えですね。今ではなくなってきてますが、畑の肥やしに使うのを昔は人糞を、肥え壷というのを作って溜めてましたよね、そういうものは、いくらでも人が作るんだから使っても溜まってきますね。

そんな物でも惜しんでやれないというのですね。

水のほうがまだ大事であって、そんなものは特殊な人は別として欲しいという人もいるでしょうけど、一般の人は要りませんね。

一般の人は、水だったら頂くでしょうけどね、そんなうんこは要りませんね。それでも惜しむと、これは例えですから。)


況やまた立派な財産は、とてもじゃないが、あげることは出来ない。

若し、二人の人間があって、一人は則ち大いに富み。一人は則ち貧窮なり。

(一人は財産を持っていて、一人は貧乏な人なんですね。)


今、乞食ありて来たらんに、共に苦悩を抱く。

(物乞いが来たら二人とも悩むんですね。どんな悩み方をするかというと、)


財ある者はその求めを恐れる。

(財があるから出そうと思えば出せるわけですね、ところがそれで悩むんですね、無ければやれんからそれですむけど、あるからしょうがないなと悩むというんですね。
で、財無き者は、)


我如何にして小財を与うか。

(これは例えですから、一人は金持ちでも施しの心が無い。もう一人は貧乏なんだけれども、施しの心があるけど、施しをする物が無い。同じように悩んでるんだけど、あるけどしたくない。したいけど物が無い。と、こういうふうに悩むということです。)

各の如きの二人憂苦(憂い苦しむ)同じと雖も(同じように悩むんだけれども、内容が違う)家宝各々異なる。

悩みは同じように悩んでるんだけど、この悩みというのは心ですよね。

然し、一方の悩みは悪い悩みだし、一方の悩みはいい悩みですよね。

仏教では、身体で行った行いだけじゃなくて、口で行った行い、心の思い。

良い思い、悪い思い。それがそのまま報いがあるという教えでしょ。

「従身語意之所生」ですね。


身と口と心に従って、「一切我今皆懺悔」というお経です。

身で悪いことをした、口で悪いことを言うた、悪い根性を持ったので、それぞれに従って、一切我今皆懺悔したというお経です。

一切を我今皆、懺悔するということです。

身で行った悪いことも、口で言うた悪いことも、心に思った悪いことも、皆懺悔すると。

だから身体は勿論だけど、口で言うても心で思うても、善きは善き、悪しきは悪しきの報いがあるということです。

善悪共に報いがある。

だから、ここでいうているところは、悩みは二人とも悩んでる。

片一方は出すけど、片一方は出したくないということで悩んでいるんです。

悩みは悩みだけど、その内容は違いますね。

同じ心の悩みだけど、こちらは善い悩み。こちらは悪い悩みですね。

だから貧乏で出したいけど出すものが無い人には良い報いがあるし、出すものがあるのに出さない人には悪い報いがあると、こういうことですよ、報いも各々異なる。

悩みは同じだけど、報いは各々異なるのです。)


貧しゅうして慈悲ある者は天或は人間の中に生まるる。
(良いことをした人は、天上界へ生まれる。少なくとも人間界へ生まれるということですね。)

そして大きな福徳を得る。
(大きな富と喜びを受けるんですね)


慳貪の者は餓鬼の中に生まれて無量の苦を受く。
(大きな苦しみを受けるんですね)

と、いうお経があるわけです。

というわけで、同じ布施しましてもこういう差が出てくるということです。

ま、報いのことを考えるな、報いを求めて布施をするなと、戒めてありますけれども、兎に角、良いことも悪いことも報いはあるということは信じないといけませんね。

善きにつけ悪しきにつけ報いがあるということです。

因果応報だということですね。

やはり我々は凡夫ですから、どうしても損と得。善と悪を区別して考えたほうが考え易いですからね。


「財施」。今のお話しは、この財施のお話しですね。

「法施」。和尚さんがお話しするこのお話しが、法施なんですね。

このお話しをするにも、皆さんからお金を貰っていたら法施にはなりませんけど、何も貰わずに、仏教の教えを皆さんに貰ってもらう。

それが法施です。

「無畏施(むいせ)」。と言って、怖がっている人を守ってあげる。

例えば、小さい子供が犬を怖がっていたらそれを守ってあげる。

恐怖から守ってあげることですね。畏れを無くしてあげる布施。


そしてこの財施の布施というのは、欲界だけしか通用しないんです。

欲界、色界、無色界とありますね。

欲界には、六道といって、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上とありますね。

色界、無色界の人には、もう欲が無いんですよ。

迷いの世界だから煩悩はあるけど欲が無いんです。

欲の無い人に施しても功徳にならんのです。
作品名:和尚さんの法話 「布施」 作家名:みわ