和尚さんの法話 「布施」
(事を求めて自分のためにする。相手のことを考えてするんじゃなくて、自分のためにするというのは、それはもう不純になってくるのでそういうことは一切求めない)
天人の中に生まれて楽を受くる為にせず
(先ほどの天に生まれるための目的で布施をするんじゃないということですね。)
善名の外に流布する為にせず
(つまり、あの人は良いことをするという売名のためでもない。)
他に優るる為にせず
(あの人は偉い人やなあ、ちょっとあんな真似は出来ない。ほんまに偉い人やなあと思わせる。これも売名でしょう。)
不要のためにする。
(要るものは自分のために置いて、要らんものだけ布施をする。そういうのはあかんということですね。)
家風だからする。
(これは家の家風やから、伝統やからするというのではあかんということです。しないよりはましですけど。)
親近の為にする
(親近というのは、つまりその人と近づきたいためにいろいろとやって、近づいて利益を得る。その目的のために布施をする。)
そういうふうに自分の目的のためにしてはいかんということです。
相手のためを考える。
そういうふうに優婆塞の人たちに説いたお経なんですね。
そこの一説なんです。
そういうふうな、同じ布施をしながら不純な布施をすると、功徳が少なくなるのです。
またこれも優婆塞戒経の別の所に、
「一は、先に多く発心し後に少なく与う。」
これは、初めは多く布施しようと思ってたんだけど、これだけにしようとする。
初めに思ったより少なくしてしまうんですね。(笑)
そういうようなことをしたらあかんということです。難しいものですね。
「二には、悪い物を選んで人に持っていく。」
たとえば、みかんが並んでたとしますと、ちょっと傷んできたようなみかんを選んで持っていくということ。(笑)
そういうことをしたらあかんね。一番いいのを選んで持っていくことです。
「三には、既に施しを行じ終わりて悔いる。」
人に物を持っていって、気持ち良くなって帰ってきて、そして後になって惜しいことをしたなあと悔いる。もうちょっと考えたらよかったと、後で後悔する。(笑)
せっかくの功徳が少なくなりますね。
この三つのことは、清きことにあらず。と
純粋な清い布施にはならないということです。
「又、八事あれば成果を成就することを得ず。」
次ぎの八つのような不正をしたら功徳が無いということです。
お釈迦讃は功徳を受けよと、功徳を説いてるんですから、それは方便として、善い布施をせよ、善い布施をせよというて、やっぱり欲で吊らんとしょうがないですからね。
その欲に吊られて、終いにその欲はだんだんと捨てて、善いことをして善いことだけになって、欲はどうでもいいというようになっていくんですね。
我々は初めから欲で吊らなければ、善いことがありますよと言わんとしないから。
だから、こうしたら功徳があるんだからしなさいよと、いうわけですね。
菩薩になってきたら、もうそんな欲はないですね。
もう超越していますからね。
我々はいっぺんには、なかなか超越できませんから。
やっぱりそういう順序として、こういう功徳があるという説き方をせざるを得ないんですね。
一、「施して受ける者の過ちを見る。」
持って行った後で、その人の欠点を論(あげつら)う。
そういうことをしたらあかんということですね。
二、「施す心均等ならず。」
例えば、二軒の家へ持っていった。
こっちの家はいつもお世話になるからちょっと多めに持っていって、こっちの家はあんまりお付き合いもないからちょっとでええわと、差をつける。
差別をしてはいかんというわけですが、我々はやっぱりお世話になったところへ多めに持っていきますよね。
そういう差別をしてはいかんというわけですね。
三、「施して受ける者に求める心あり」
つまり、見返りを求めるということですね。こうしたら、こうしてくれるやろと。
持っていっといたら、またなにかくれるだろうと、そう思うたらいかん。
その人からまたお返しがかえってくるやろうと思うたらいかんということです。
四、「施して喜びて自ら誉」
善いことをしたら嬉しいですよね。
皆はこんなことようせんやろと嬉しい。ああ、ええことしたーと。
自分に自分で誉めていい気になると。これはいかんということです。
五、「施して後に再び与うることなからん」
これは、一度あげると、また貰いに来る。
もうこれで終いやで、もう来んといて、というたらあかんということです。
ところが、和尚さんの寺にルンペンがよく来るんだそうです。
いつも物を貰いにくるから、もう来たらあかんというけど来る。
来たら和尚さんも、布施をせんならんと思うてする。
ところが何十篇も来たら仏の顔も三度までというやろ、おまえは何遍来てるんだと、よけいなことを言いたくなってしまうそうです(笑)
警察の人も和尚さんに、もう何もあげんといてくれと言うそうです。
和尚さんの所だけだったいいけど、他所へも物を貰いに行くからと。
あんな人は人を頼りにして仕事をしませんのやと。
和尚さんも暇なときは、おまえここへ腰をかけてなはれというて、お前はなんでそんな境遇に生まれてきたか分かるかと、一席話すそうです。(笑)
あんたは毎度毎度、仕事もしないで貰いに回ってるんでしょ、と。
そういう境涯になんで生まれてきたかと。
和尚さんに物を貰った手前聞くそうです。(笑)
然し、いつかは仏縁の芽が出るだろうと思うて話すんだそうです。
こういう教えがあるのは分かってますけど、こう度重なってきたら言いたくなるんだそうです。
『分別業報経』
「各の如きの布施は親しく諸仏正見の人に遭うことを得ず」
そういうことをしてたら立派な善知識に遭えない。
つまりは救われないという戒めですね。
皆どのお経も似たことを説いてます。
これは「分別業報経」というのがあります。
これも「若し、天に生まるる為に施しを為し、或は売名を求める。或は頒布を求める。
(お返しを望み)又は、恐れの為に出すと。
脅迫されて出すとこれも功徳にならんのですね。
出さんと命がなくなるから出すのであって、本当にその人の為にと思うて出すのと違うからね。
止むを得ないですけど功徳にはならない。)
各の如き布施は、果報を得ること清浄ならず。
(報いはあるんだけれども、不浄だから100%戻ってこないというんですね。)
若し、慳心(けんしん)多き者は、
(慳心と言うのは非常に強欲で出すのが嫌という、惜しむという意味ですね)
その惜しみの心の強い者は、泥土と雖も金欲よりも重んじる
(自分の屋敷にある泥土よりも、人がちょっとこの土をちょうだいと言っても、あかんと言って拒む。惜しみの心の強い人はそういう泥でも黄金のように惜しむ心が強い。)
そして、慈悲の心のある人は、今の逆ですね。困った人に黄金をあげるにも、木の端をあげるような、それくらいの心だというのです。
作品名:和尚さんの法話 「布施」 作家名:みわ