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和尚さんの法話 「布施」

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お金であろうが物であろうが兎に角、よそさんへ、隣でも近所でも今日はこんな物を作りましたんでと、持っていったらそれは布施ですよ。


兎に角、人さんに物を差し上げたらそれを布施というんです。

お経に関係なく布施というんです。

その布施ということについていろんなお経に、同じ布施をしながら大きな功徳を頂く場合と、少ない功徳になる場合がある。

折角布施をしながらそういう場合があるんですね。

どんな布施が正しくて、どんな布施が正しくないのかということなんですね。


そして布施には善いことですわね。善いことでも悪いことでも必ず報いがあるというのが仏教の教えですよね。報い。

善しにつけ悪しきにつけ、布施も含めて。

善悪ですね。

布施は善の行いですね。これはいうまでもなく善ですよね。

他に悪もありますよね、人を騙してペテンにかけたり、人を殺したり物をとったりするのは悪ですね。

この善悪の行いには、必ず報いというのがあるわけです。

これを因果応報といいますね。

因があれば必ず果がある。

因に応じて結果が出てくるというわけです。

報いが必ず結果として現れてくる。善悪共にね。

因果応報というのは仏教の原則ですから。


だから布施をすれば、ありがたいことに物は少なくなるかもしれませんし、或はしんどいこともせんならん、自分の身体をもって奉仕することもありますね、お金をもらわんと。

お金を貰ったら布施にならんのですよ。

兎に角、奉仕なんですね。

有形無形に奉仕するということが布施なんですよ。

だから物をあげるだけが布施じゃありません。

困ってる人に荷物を持ってあげるのも布施なんです。

兎に角、人に対して自分がなにか犠牲を払ったら布施というんですよ。

だから形のある布施もあれば形の無い布施もあるんですよね。


『報い』

それで、ありがたいことに必ず報いがあるということですね。

報いは必ずいつか芽を吹いて、具体的に形となって、例えば前世でたくさん布施をしてあったら、この世へ裕福に生まれてきてるんです。

そういう人は偶然じゃないんです。

努力も智慧もさりながら、前世でしてあるんです。


こういうお経があるのでご紹介します。

お釈迦様が、或る家の門の前へ托鉢に行って布施を乞われたんです。

そして家の人がご飯をお布施した。

今だったら、ほーと言うて来てお米とかお金を布施しますね。

ご飯をその場で出すということはありませんね。

ご飯を出すんだったら上がってもらって食べてもらいますが、だいたいはお金を出しますね。

ところがお釈迦様の時代は鉄鉢を持って回って、そこへご飯を盛ってもらうんですね。

そしてそれを持って帰って食べるわけです。

お釈迦様の時代はそういう時代でした。

その家の妻はお釈迦様にご飯を布施して礼拝した。

そのときお釈迦様は、こうお説きになった。

一を乞ゆれば十を生じる。一を乞ゆたら十が返ってくるというのですね。

十を乞ゆれば百を生じ。

百を千を乞ゆれば千を生じ。

千を乞ゆれば万を生じ。

万を乞ゆれば億を生じ。

つまり、したよりも多く返ってくるということですね。
これはありがたいですね。

これはお釈迦様がおっしゃってるんだから我々は信じたらいいんですよ。

その奥さんは純粋なんですね。

ところがご主人はそうじゃない、理屈をこねるんですよ。

こんな一杯のご飯の布施がなんでそんなに増えるんやと。

ま、兎に角、布施というのは結構なことで、したよりも多く返ってくるんです。これを覚えていただいたらいいですね。


で、同じ布施をしながらどういう報いが純粋で、どういう報いが不純なのかというという戒めですが。

これは「華厳経」というお経の中の一説なんですが、

「菩薩は大施主となりて一切のものを等しく衆生に施して報いることなり」

もう菩薩様にまで成ってきたような人は、誰にでも施しをするんですね。

この人にはするけど、この人にはしないと、いうようにしたらいかんということです。

つまり差別したらいかん。皆にあげる。そういう戒めがあるんですね。

ところが、果報を求める、一をすれば十が戻るという返してもらうのが目的でする布施はよくなるということです。

そんなことを思わんでも返ってくるんだからね。

それを求めて布施をしたらあかんということです。

不純な布施になってしまうんです。

ま、しないよりは、ましという程度になってしまうんですね。


それから名誉を求める。

あの人はええなあと、人に見てもらおうと思うて、売名。

そういうことを求めたらいかんということです。

布施をどんどんと多くしたら、次ぎはその功徳で善いところへ生まれるんです。

が、ところが布施は方便で善いところへ生まれるのが目的となってきたら、はたしてそれは行けるか行かれないか、そうなってるんだけれども、あんまりその心が強うて布施の心よりも向こうへ行く心が強かったら、それもまた不純になってくるんです。

そんなことを思わんでもそうなるんですから。

それから、利用を求める。

人にいろんな物を持ってきてくれる人は、いろんな物をくれたり、助けてくれるような気になりますね、見てる人は。

そういうことを勘定に入れてする。

そういうのも売名になるのでしょうけど、兎に角何等他の目的の気持ちを持ったらいかんということですね。

ただ一切衆生を救わんと欲し、これは菩薩の布施の仕方ですからね、衆生を摂取する、と。

どうしたら一切衆生を助け、衆生が助かるかと、そのことばっかり念頭において布施すると。

菩薩もそうしているんだから、皆もそれを見習いなさいよ、ということなんですよ。

兎に角、菩薩は皆が助かるようにと考えてやってると。

こういうふうな布施の仕方をするんだから、衆生の諸君もそうせないかんよとお釈迦様が指示してるお経なんですよね。


また別のお経の中に、「優婆塞戒経」というお経で、優婆塞というのは、坊さんが「比丘」というんですね。

皆さんが、比丘さんというと尼さんのことを思うかもしれませんけど、尼さんは「比丘尼」なんです。

比丘というと、男の坊さんのことですね。

この比丘の下に尼をつけてはじめて「比丘尼」尼さんになるんです。

女の人は比丘尼になるわけです。

そのほかに、優婆塞というのと、優婆夷という二つの言葉があるのですが、それは在家の信者のことですね。


『優婆塞』

優婆塞というのは、在家でおって妻子を持ちながら、然しながらやってることは坊さんとちっとも変わらんというような人を、優婆塞というのです。
優婆塞は男性で、優婆塞が女性です。

これからお話するのは、その優婆塞に対するお経の解説なんです。

智者
(智者というのは、非常に智慧の有る人というのではなくて、仏教のことがだんだんと分かってきた人ということです。
仏教のことが全く分からない人を愚者と、こういう言い方をします。)
の布施を行ずるは、恩に報いる為ににせず
(恩を売るんじゃないのですからね)

事を求むる為にする
作品名:和尚さんの法話 「布施」 作家名:みわ