和尚さんの法話 「布施」
彼岸というのは彼の岸ということですが、彼岸とはなにかというと、これは悟りの岸、救われた岸という意味で、この世という岸は迷いの岸で、彼の岸は悟りの岸、救われた岸ということです。
この彼岸というのはたとえた言葉なんです。
岸というのは、例えの言葉で、国と言うてもいいし、国土と言うてもいいんです。
この迷いの岸から悟りの岸へ行くということなんですよ、波羅蜜というのは。
その道が、重要な道が六つあるというので、六波羅蜜というわけです。
解脱の道が六つあるんです。
大事な部分はたくさんありますけど、特に大事なのを挙げたら六つあるんです。
その一つに、「布施」というのがあるんです。
これを「布施波羅蜜」というんです。
布施の他に、戒律を守る。
こういうことをしてはいかんという仏教には戒律というのがあるんです。
特に、真言宗とか戒律は厳しいですね。
真言律宗という戒律の宗というのがありますね。
鑑真という方がありますね、中国から渡ってきた方で、あの方が律宗を開いた方ですね。
布施の他に戒律を守る。
次ぎが、順に書いていきますと、持戒。忍辱。精進。禅定。智慧。
「禅定」というのは、禅ですね。
禅を極めていくと、「智慧」(これを般若というんです)般若の智慧とよく言いますね。
「持戒」は、今いう戒律のことです。
「忍辱」(にんにく)というのは、これは辱め(はずかしめ)という字ですよね。
人から辱めを受ける。軽蔑される。
馬鹿にされる。それを耐え忍ぶ、腹をたてないということです。
忍というのは耐え忍ぶということですね。
これは辱めだけじゃないんですけれども、一番堪え忍び難いのが、この辱めだと、仏教ではいうんですね。人に辱めを受けて恥をかかされても腹がたたんと、いうようなそういう境地にはなかなかなれない。
と、いうので代表的にこれを持ってきたんですね。
兎に角、問題は耐えるということですね。
仏教で、これによく似た言葉で我慢という言葉がありますね。
我慢強いとかね。
これは違うんですね、ちょっと意味がずれてるんです。
我慢というと、皆さんは辛抱と思うと思うんです。が、そうじゃないんです。
この慢という字は驕るという意味になるんですよね、慢心。
鼻高々にしてることですね。高ぶりなんですよ。辛抱じゃないんですよ。
仮に辛抱しても、皆は辛抱できないだろう、私は辛抱が出来るだぞ、どうだ。と、こういう気持ちが慢というんですよ。
そういう気持ちが含んでいるんですよ。この我慢には。
たしかに耐え忍んでるんだけれども、おまえら出来んだろう、わしには出来るんだ、どんなもんだ。
という気持ちが潜んでる。
そういうのを「我慢」というんです。
忍辱はまったくそういうのが無い。純粋に耐え忍んでるんですね。
「精進」は努力ですね、一所懸命に努力することです。
怠けんと努力をするというのは、これは難しいですよね。
そして禅定と。これが六波羅蜜というのです。
それの第一条がこの布施ということですね。
『波羅蜜』
こういうことを行じなければ、南無阿弥陀仏で阿弥陀様にお救い頂くという話は別として、通仏教的なお話にはこういう教えが入ってあるということを皆様方にご紹介をするならばこういう話もあるというわけです。
この布施をまったくしないで、修行をしていたって、御仏のお心には叶わないんですよ。
布施をしなさいと、お釈迦様がおっしゃっているのだから。
布施をしなさい。
戒律を守る。
忍辱をし、精進しなさいと。
そして禅定で智慧を開きなさいと。
こうおっしゃっているんだから、それを守らないといけませんね、我々は。
守れないのは分かっているけど、守ろうと努力をしなけりゃいけませんね。
だた項目を挙げているだけじゃないんですよ、それを実行しなさいよと、お釈迦様がおっしゃっている。
これをしないと、解脱にならないんですね。
一所懸命に拝んでるんだけれども、ちっとも布施もしないし戒律もしないし、精進もしない、ただ拝んでるだけ、というと問題ですね。
これを一所懸命に実行することが、彼岸なんだし、波羅蜜なんですよ。
彼岸に至る必須の科目なんです。
皆これを行じなければいけないんですよ、遅かれ早かれ大なり小なり、皆これを行わなければならないんです。
こういうことで、その中で一番最初にこの布施ということで、第一行なんですね、この六波羅蜜のなかで。
そういう意味で「布施」ということをご説明したいと思います。
そういうことで、今言いましたように、布施ということでお経の代価、それで全てだという意味じゃない。
インドの言葉で、ダーナ。
このダーナという音を檀那という字であててあるのです。
檀の下に徒を書けば檀徒やし、家を書けば檀家。
だからダーナということは、布施ということになるんです。
漢字で書けば、檀那。略することもあって、檀。
檀波羅蜜とも言うんです。布施波羅蜜を、壇波羅蜜とも言う。
同じことですね。
皆さん、よく世間で檀那様と、自分の主人をよく檀那さんといいますね。
その檀那様という本来の意味は、人に恵んで心理的にも物質的にも、労わって惜しみなく、身も心も物でもなんでも与えるという意味が、檀那というんです。
あの人はそういう人やから、檀那さんだということです。
こういうところから檀那さんという意味がきてるんですね。
今では奥さんも旦那さんに養われているというので、檀那様なんですよ。そういう意味からきてるんですよ。
ところが、億万長者といわれている人がそれだけお金を沢山持っていても、ちっとも出さん、というのはそれは檀那さんじゃないですね。
たとえ貧乏であっても、人に出す、と。小は小なりにでも出すと、それはもう檀那様なんです。
そういうところからきてるんですね、檀那様という意味は。
だから檀家という意味は、布施する家という意味です。
布施をする人ですね。
何処へ布施をするかというと、自分の寺ということです。
江戸時代から檀家制度というのが成り立ってきましたね。
現在それがそのままきてるわけです。
まずは何処かの寺へ所属してるわけです。何処かの寺の檀家なんですよね。
だからまずは、自分の寺へ。
死んだら導いて頂くんだから、寺に何事かあったら寺のためにと、自分が救われるんですから。
布施をすれば自分の功徳になるんだから。
だから檀家さんが寺に尽くさなかったら檀家といえないですね。
言葉の意味から説明したら、こうなるわけです。
少し前置きが長くなりましたんですけれども、その布施ということについてお経の中に、いろんなお経に布施ということについて説いてるのがありますので、それをご紹介したいと思っています。
だからお経を読んでもらって、出すのも勿論出したんだからこれも布施ですよ。
然し、そうじゃなくて、橋の上に坊さんが立ってますね、通りがけにちょっと渡したらそれで出すのも布施ですよ。
お経を読んでもらわんでも布施なんです。
作品名:和尚さんの法話 「布施」 作家名:みわ