和尚さんの法話 「布施」
『六道』
京都に六波羅蜜寺というお寺がございますね。
この「六波羅蜜」というのは、これは仏教の熟語なんですね。
そのままお寺の名前にとってるわけですが、この波羅蜜というのは、皆さん心経をご存知と思いますが、摩訶般若波羅蜜多。
これを省略して波羅蜜といいますね。
インドの言葉はよく省略して言いますね。
六波羅蜜多。般若波羅蜜というのと一緒なんです。
波羅蜜というのは、初めての人は馴染み難い言葉だと思うのですが、これは「解脱」というんですね。
これは少し平たく言えば、救われるという意味なんですね。
仏教は、救われるという言葉を使わないことはないけれども、よく解脱ということを言いますね。
「解脱」ということは、お経の言葉で言うならば、「解縛脱離(げばくだつり)」。
これを省略して解脱と読んだんですね。
こうして略して読むのはインドの習慣なんでしょうけど。
この縛というのは、縛(しばる)という字ですね。
時代劇を見ていると、縛につけ、とよくいいますね。
縛るということですね。
その縛られているのを解きほどいて脱離すると、こいういう意味なんですよ。
つまり苦しみの世界へ縛り付けられているんだ、というのが仏教の言い方なんです。
苦しみの世界は何だといいますと、この人間界も皆さんは結構だとお思いになってると思うけど、仏様の目から見たらこんな苦しい世界は無いというので、お釈迦様が出家したんですわね。
まだ人間界は、まだ宜しい。下には地獄があり、餓鬼があり、畜生があり、修羅があり、そして我々の人間界がある。
もうひとつその上に結構な天上界とありますが、それは六道ですね。
六道ということはよくご存知と思うんですが、これは迷いの世界を意味するんですよ。
人間界も含めて、六道というんですが、これは迷いの世界。
なんで迷うてるのかといいますと、つまり救われていないんですね。
六道という世界は救われざる世界。
別の言葉で言えば、苦の世界。
救われるというのが解脱というわけです。
だから六道の外へ出る、とこういうことなんです。
それは死後の世界を想定しなければこんな話は成り立たないわけです。
だから宗教というものは、どの宗教もですが、死後の世界を前提にしなければ成立しないんですよ。
死後の世界が無いと言いながら仏教を説く人がたくさんありますが、これはもう大間違い。
西に向かって東に歩むというか、木に登りて魚を求めるというか、そんな矛盾ですよね。
死後の世界を否定しながら、而も仏教を説くという方がいらっしゃいますが、これは矛盾であり間違い。
間違いの最たる第一歩でありますね。
死後の世界はあるんだから、お釈迦様のお説きになったどのお経のどこを開いてみてもあの世は無いと説いたお経は一つもありませんよ。
たとえば皆さんご存知の方もあると思いますが、阿弥陀経に、
「是より西方十万億の仏道を過ぎて世界有り、名付けて極楽という。その座に仏在す阿弥陀と申す。今現在に在して説法し給う」
と、若一日 若二日 若三日 ・・・ 若七日とございます。
つまり是から臨終、死んでいくという人がありますが、もうこの世には生きる望みは無いから、後生の阿弥陀様に救うて頂こうというので、命の有る限り後生を願って、若しくは一日、ないしは若しくは七日、十日の人もあるし、一月の人もあるでしょうが、もう死ぬしかないんだ、もう生き返ることは無いんだ、という観念が出来たらもう後生のことだけ考えて南無阿弥陀仏とばっかり称えなさいと教えてるんでしょ。
一日の人は一日、二日命があれば二日。
三日、ないしは七日と、もっとある人もあるけど七日で切ってますわね。
念仏を称える事一心不乱になれば、その人が命終わるときに阿弥陀様や観音様がお迎えに来てくれる。
そして心正念で、顛倒、錯乱、失念せずして阿弥陀様が極楽へ往生させて下さるということですよ。
これは死後の世界を想定して説いてあるんですね。
そういうふうに直接はっきりと説いてありますよね。
直接に説かなくても、間接にこれは死後の世界を想定した言葉だというふうに、うなずける言葉がいくらもあるんですよ。
和尚さんは、今までに随分いろんなお経を、宗派もいろいろありますが読みましたそうですが、あの世が無いと説いたお経は一つも無いと。
あの世が有るということは説いてあっても、無いということは説いてません。
なのに、何故今の坊さんや仏教学者があの世が無いというのか、自分が信じられないからですね。
自分が認められないからですね。それは自分が足らんのですよね。
三界六道と、早い話が我々人間というのは地球上の人間。
あの世にも人間はあるんですよ。
先祖も皆人間ですわね。
死んであの世へいってる先祖は皆人間です。
だからこの世にもあるが、あの世にもるんです。
人間は別にしても、地獄。これはこの世と違いますね。
地獄、極楽はこの世にあるという人があるが、それは違いますよ。
地獄のような、極楽のような、という例えですよ。
地獄のような有様とか、極楽のような有様とかいう例えです。
地獄、極楽はあの世です。
地獄、これはあの世。
餓鬼、これもあの世。
畜生はこの世にもあるし、あの世にもある。人間と一緒ですね。
修羅があの世。人間が、この世とあの世と。
そして天上界、これがあの世ですね。
そういうふうにあの世のほうが多いんですよね、この世のことよりも。
この世も含めて、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六道は迷いの世界というんです。
それはなんで迷うのかと、迷うというか、救われないのかというと、仏教語では煩悩というのがあるということです。
『煩悩』
煩悩というのは何かということを言いますと、腹をたてたり、物を欲しがったり、人を恨んだり、殺そうという悪意を持ったりと、そういうような悪い妄念はみんな煩悩というんです。
それが六道から自分を出さない。縛り付けている。
煩悩が六道へ縛り付けている。その煩悩を解きほどてやる。
つまり修行をして煩悩をだんだん無くして善い心ばっかりにしてしまう。
煩悩という縄ですわね、自分で自分を縛り付けてるというんです。
神さんや仏さんがこの六道へ縛り付けてるんと違うんです、自分が縛り付けてるんです。
自縄自縛という言葉がございましょ、自分が縄で自分を縛り付けるという、そのとうりなんですよ。自縄自縛なんですから。
我々は煩悩があるから、業があるから自分が自分を縛り付けてるんです。
その縛を切り解いて、そこから出る。六道から出ることを解脱というんです。
六道から出た人を仏教では救われた人というんです。
その救われる道が、たくさんありますが、その中心的に大事なものを取り上げたら六つあります。
この波羅蜜というのは、この迷いの六道の世界から出る。
解脱という意味なんですよ。
直訳したら、別の意味で言うと、「到彼岸」彼岸に到る。
京都に六波羅蜜寺というお寺がございますね。
この「六波羅蜜」というのは、これは仏教の熟語なんですね。
そのままお寺の名前にとってるわけですが、この波羅蜜というのは、皆さん心経をご存知と思いますが、摩訶般若波羅蜜多。
これを省略して波羅蜜といいますね。
インドの言葉はよく省略して言いますね。
六波羅蜜多。般若波羅蜜というのと一緒なんです。
波羅蜜というのは、初めての人は馴染み難い言葉だと思うのですが、これは「解脱」というんですね。
これは少し平たく言えば、救われるという意味なんですね。
仏教は、救われるという言葉を使わないことはないけれども、よく解脱ということを言いますね。
「解脱」ということは、お経の言葉で言うならば、「解縛脱離(げばくだつり)」。
これを省略して解脱と読んだんですね。
こうして略して読むのはインドの習慣なんでしょうけど。
この縛というのは、縛(しばる)という字ですね。
時代劇を見ていると、縛につけ、とよくいいますね。
縛るということですね。
その縛られているのを解きほどいて脱離すると、こいういう意味なんですよ。
つまり苦しみの世界へ縛り付けられているんだ、というのが仏教の言い方なんです。
苦しみの世界は何だといいますと、この人間界も皆さんは結構だとお思いになってると思うけど、仏様の目から見たらこんな苦しい世界は無いというので、お釈迦様が出家したんですわね。
まだ人間界は、まだ宜しい。下には地獄があり、餓鬼があり、畜生があり、修羅があり、そして我々の人間界がある。
もうひとつその上に結構な天上界とありますが、それは六道ですね。
六道ということはよくご存知と思うんですが、これは迷いの世界を意味するんですよ。
人間界も含めて、六道というんですが、これは迷いの世界。
なんで迷うてるのかといいますと、つまり救われていないんですね。
六道という世界は救われざる世界。
別の言葉で言えば、苦の世界。
救われるというのが解脱というわけです。
だから六道の外へ出る、とこういうことなんです。
それは死後の世界を想定しなければこんな話は成り立たないわけです。
だから宗教というものは、どの宗教もですが、死後の世界を前提にしなければ成立しないんですよ。
死後の世界が無いと言いながら仏教を説く人がたくさんありますが、これはもう大間違い。
西に向かって東に歩むというか、木に登りて魚を求めるというか、そんな矛盾ですよね。
死後の世界を否定しながら、而も仏教を説くという方がいらっしゃいますが、これは矛盾であり間違い。
間違いの最たる第一歩でありますね。
死後の世界はあるんだから、お釈迦様のお説きになったどのお経のどこを開いてみてもあの世は無いと説いたお経は一つもありませんよ。
たとえば皆さんご存知の方もあると思いますが、阿弥陀経に、
「是より西方十万億の仏道を過ぎて世界有り、名付けて極楽という。その座に仏在す阿弥陀と申す。今現在に在して説法し給う」
と、若一日 若二日 若三日 ・・・ 若七日とございます。
つまり是から臨終、死んでいくという人がありますが、もうこの世には生きる望みは無いから、後生の阿弥陀様に救うて頂こうというので、命の有る限り後生を願って、若しくは一日、ないしは若しくは七日、十日の人もあるし、一月の人もあるでしょうが、もう死ぬしかないんだ、もう生き返ることは無いんだ、という観念が出来たらもう後生のことだけ考えて南無阿弥陀仏とばっかり称えなさいと教えてるんでしょ。
一日の人は一日、二日命があれば二日。
三日、ないしは七日と、もっとある人もあるけど七日で切ってますわね。
念仏を称える事一心不乱になれば、その人が命終わるときに阿弥陀様や観音様がお迎えに来てくれる。
そして心正念で、顛倒、錯乱、失念せずして阿弥陀様が極楽へ往生させて下さるということですよ。
これは死後の世界を想定して説いてあるんですね。
そういうふうに直接はっきりと説いてありますよね。
直接に説かなくても、間接にこれは死後の世界を想定した言葉だというふうに、うなずける言葉がいくらもあるんですよ。
和尚さんは、今までに随分いろんなお経を、宗派もいろいろありますが読みましたそうですが、あの世が無いと説いたお経は一つも無いと。
あの世が有るということは説いてあっても、無いということは説いてません。
なのに、何故今の坊さんや仏教学者があの世が無いというのか、自分が信じられないからですね。
自分が認められないからですね。それは自分が足らんのですよね。
三界六道と、早い話が我々人間というのは地球上の人間。
あの世にも人間はあるんですよ。
先祖も皆人間ですわね。
死んであの世へいってる先祖は皆人間です。
だからこの世にもあるが、あの世にもるんです。
人間は別にしても、地獄。これはこの世と違いますね。
地獄、極楽はこの世にあるという人があるが、それは違いますよ。
地獄のような、極楽のような、という例えですよ。
地獄のような有様とか、極楽のような有様とかいう例えです。
地獄、極楽はあの世です。
地獄、これはあの世。
餓鬼、これもあの世。
畜生はこの世にもあるし、あの世にもある。人間と一緒ですね。
修羅があの世。人間が、この世とあの世と。
そして天上界、これがあの世ですね。
そういうふうにあの世のほうが多いんですよね、この世のことよりも。
この世も含めて、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六道は迷いの世界というんです。
それはなんで迷うのかと、迷うというか、救われないのかというと、仏教語では煩悩というのがあるということです。
『煩悩』
煩悩というのは何かということを言いますと、腹をたてたり、物を欲しがったり、人を恨んだり、殺そうという悪意を持ったりと、そういうような悪い妄念はみんな煩悩というんです。
それが六道から自分を出さない。縛り付けている。
煩悩が六道へ縛り付けている。その煩悩を解きほどてやる。
つまり修行をして煩悩をだんだん無くして善い心ばっかりにしてしまう。
煩悩という縄ですわね、自分で自分を縛り付けてるというんです。
神さんや仏さんがこの六道へ縛り付けてるんと違うんです、自分が縛り付けてるんです。
自縄自縛という言葉がございましょ、自分が縄で自分を縛り付けるという、そのとうりなんですよ。自縄自縛なんですから。
我々は煩悩があるから、業があるから自分が自分を縛り付けてるんです。
その縛を切り解いて、そこから出る。六道から出ることを解脱というんです。
六道から出た人を仏教では救われた人というんです。
その救われる道が、たくさんありますが、その中心的に大事なものを取り上げたら六つあります。
この波羅蜜というのは、この迷いの六道の世界から出る。
解脱という意味なんですよ。
直訳したら、別の意味で言うと、「到彼岸」彼岸に到る。
作品名:和尚さんの法話 「布施」 作家名:みわ