煌く夢に神の抱擁
「まぁ、何でも良いけどね。ユリにしろあの子にしろ、笑ってる方がいいなって、ただそれだけ」
長い睫毛に囲まれた極上に輝く青紫の瞳を穏やかに笑ませて、アンリはまた街並みに視線を流す。先ほど見た人間たちの満足げな表情を、アディーの歌声でもっとたくさん増やしてほしいと、純粋にアンリは願う。少し聴いただけだが本当に声を取り戻したならば、あの子のそれは無限に可能性を秘めているはずだ。どこまでも伸びる声を、大きな劇場で歌う姿を、たくさんの人に聴いて、見てもらって、そしてたくさんの拍手を受けて笑うアディーはきっと今まで以上に愛らしくなるはずだと、あどけない笑顔で想像するだけでワクワクした気持ちになる。自然と顔の綻ぶままに街並みを見ているアンリを、じっと見ていたユリがその口元を僅かに笑ませてクスリと笑った。そして。
「あなたに見つけてもらって、その人間は幸せかもしれませんね」
ふと、ユリが呟いた。
「なぁに?」
よく聞こえなかったアンリが聞き返すと、ユリの仮面のように表情のない容貌が更にふわっと綻んだ。めったに見ないそれがアンリでさえ驚くくらいに穏やかに微笑を見せる。
「あなたは死神じゃなくて、他の神にでもなればいかがですか?」
ある意味とても失礼に取れる言い方に、アンリがあっけに取られて言葉を失う。ぽかんとした顔が本来の整った容姿を無限の彼方に吹き飛ばしたかのように間抜けすぎて、ユリが思わずと言ったように吹き出した。これもめったに声を出して笑わないユリにしては珍しく、ますますアンリがぽかんとしてしまって、言われたことに何も言い返せないままユリが腹を抱えて笑うのを見るばかりだった。
いくらか笑った後に、涙まで浮かべていたユリが長い指でそれを拭ってやっと笑いを収めると、また表情の殆どない顔つきに戻る。
「あなたのすることに文句は言いませんが、くれぐれも深入りはしないでくださいね。ここは私の担当なので厄介ごとを起こされると私が注意されますので」
神経質そうな藍色の瞳で一瞥したユリに、アンリがハッと我の返り、また子供のようにぷうっと頬を膨らませた。やはりどこまでもこの死神は子供っぽくて威厳のかけらもないなと、白い死神は思う。
「怒るも何も、ユリの上にいるのは僕じゃないさ。覚えててよね、それくらい」
「……そうでしたね。危うく忘れてしまうところでした。しかしあなたの上にはまだ最高神がいらっしゃるので、怒られてしまうようなことは慎んで下さい」
「分かったってばっ。おとなしくしてれば良いんでしょ」
何度も窘められて、アンリがぷいっと顔を背けて拗ねてしまった。それにおかしそうに小さく笑う、もう一人の神の控えめな笑い声が夜の街に静かに流れていった。
自分より下の位の神に笑われながら、アンリは頭の中でアディーのことを考えていた。小柄な身体が震え、子供のように泣いていた様子は、見ていて心が締め付けられるほどに痛かった。何よりも大切な夢を抱えてこの街にやって来て下積みをして頑張った結果を、薄汚い金とコネで奪われてしまえば、落ち込んで当たり前じゃないかと、アンリが小さく腹を立ててしまうのも無理はなかった。この先もそんなことが起こるかもしれないと言って、アディーはまた泣いていた。それならば頑張る意味が分からない、歌う意味がわらかない。歌手になりたくてここまで来た意味が分からなくなってしまったと、何度も繰り返していた金色の髪をアンリはなでてやるしか出来なかった。
「見てる分には、こんなに綺麗な街なのにねぇ……」
真っ赤になった眼で最後は、「話を聞いてくれてありがとう。死神って悪いものじゃないのね」と言ったアディーの泣きはらした笑顔が、アンリの中に何度も過ぎった。それはこの街の煌きと真逆でそんな涙をたくさん流してきた人間がいるんだと思うと、黒衣の死神は口から珍しいくらいに大きな溜息が零れるのを抑えることが出来なかった。
***
あれから数日間、アンリはアディーのいる劇場に通うようになり、誰もいない時にふわりと姿を現すようになった。
初めて会った時は驚いていたアディーだが元々順応性が高いのか、アンリの死神らしくない雰囲気が幸いしたのか、たった数日でアンリに慣れてしまったようで、今日もやや冷たい風を纏いながら姿を現した死神ににっこりと笑顔を見せた。
「こんにちは、アンリ」
愛らしい笑顔を向けてきたアディーに、バラの蔦の絡みつく大きな死神の鎌を手にしたアンリもまたその美貌を掠めさせてしまうほどにあどけない微笑を浮かべた。
「こんにちはぁ。今日も練習してたの?」
ふわりふわりとどこまでも自由なアンリが音もなく足を運び、アディーを見下ろすように見て笑う。
「そうだけど、でもまだ全然だめ……」
にこやかな笑顔を見せてはいるものの、アディーは少しばかり暗い声でそう言って自分で呆れたように笑った。
「そっか」
アンリはあえてそれを追及しないまま、短く声を返す。それにふとアディーが視線をアンリへと持ち上げて、間近に見える死神の青紫の瞳を見つめた。
「アンリは、歌えるの?」
「……へ?」
いきなり問われたことにアンリの目が丸くなり、そして若干困ったように泳ぎ始めた。
「そんな顔するってことは、歌えるのよね?」
「歌えない……ことはないけど」
「ないけど、なに?」
いつも朗らかな死神にしては珍しいくらいに声に張りがなくなってしまって、そのまま視線を自分の足元に落とした。引きずるくらい長いローブのために足先は見えないが、明らかにアンリが困ってしまっているのか、そこから視界をさえぎるように更に頭を俯けた。
アディーは何か嫌なことでも言ったのだろうかと思いつつ、アンリのフードで覆われた中にさらりと零れる黒に近い青の髪の毛をぼんやりと眺めた。
しばらく何も言わなかったアンリだが、そのうち小さくため息をつくと、顔を上げてアディーを見た。その瞳には隠しきれないほどの動揺が滲んでいる。
「歌えるけど、好きじゃないの」
「……歌うことが? どうして?」
「褒めてくれたから」
「……どういうこと?」
アンリの言った言葉の意味がまったく分からず、アディーが思わずといったように怪訝な顔つきになった。褒めてもらえてどうして歌うことが嫌いなのか、普通の感覚で言えばそれはとてもじゃないが嫌いになる理由ではない。誰もが褒めてもらえれば嬉しいのではないのかとアディーは思うが、今目の前で頼りなげな視線を何とかアディーに止めているアンリは明らかにそうではなさそうだ。
「歌ったら、母様が褒めてくれたの。でもね、母様のことは、僕にとってあんまり良い思い出じゃないんだ。だから……歌うことは好きじゃない」
震えてしまいそうな声を必死で我慢して、アンリは答えた。それは幼子のように揺らめき、そしていつもののんびりとした雰囲気をどこかに吹き飛ばしてしまったかのように、アンリの印象を変えていた。泣き出してしまうのではないかと言うほどに、天上の宝石のように美しい瞳が潤みを帯びている様子に、アディーはそれ以上聞けなくなってしまった。
どのくらい沈黙が二人を包んでいたのか分からないほどに時間が過ぎた頃、アディーがまたふと口を開いた。