煌く夢に神の抱擁
アディーの言葉にアンリが思わず小さく吹き出して喉の奥でくつくつと笑う。自分を怖がっているわけではないが、やはり得体の知れないものに対しての警戒心を見せながら、それでも何かと言葉を返してくれるアディーの態度が素直に嬉しいと感じた。そのまま何度かアディーの髪を撫でて、アンリはのんびりとした口調で続けた。
「僕もね、歌うことは好きじゃないけど、でも音楽自体はそんなに嫌いじゃないんだ。それにアディーの声はすごく綺麗だから、もっと聞きたいなって思うよ。だから、さっきみたいな歌い方をするのは、正直聞いてて寂しい。ね、だから話して?」
あどけない笑顔を見せるアンリが、黒に近い青の髪の毛の間からまっすぐにアディーを見つめると、しばらく黙って見つめ返していたアディーの瞳が潤んで大きく大きく揺らぎ、そのまま雫となって再び流れ始めた。
「……先に泣いちゃおうか? その方が良いよねぇ」
顔を覆って泣いているアディーを見つめる死神の瞳が一層優しく穏やかになりアディーの注がれ、そのまま黒衣の中にアディーを引き込んだ。ゆったりと抱きしめて、その綺麗な形をした耳元に小さな声で語りかける。
「結界で包んであげるから、思い切り泣いて良いよー」
アンリの優しい声がアディーの身体に染みこむ頃には、二人の姿は舞台の上からかすむように消えて、声も聞こえなくなっていた。
***
「あなたは……馬鹿なのですか?」
夜。いきなり現れた白い神に、開口一番アンリはそんなことを言われてキョトンとした。
「いきなりなんなの?」
ぷうっと頬を膨らませてアンリが白い神、ユリを睨みつけるが、その顔つきののんきさから怖さはまったくない。むしろ腑抜けた感じすらすると、ユリはひそかに考えてしまっていた。
「人間に姿をさらすだなんて、気でもふれましたか」
「そんな言い方しなくても良いじゃないさ。それに、別に悪いことじゃないでしょ?」
確かに人間に姿を見られても罰則なんかはないし、それによって何かが変わってしまうこともない。どうにも厄介になれば、関わったことに対する記憶をその人間から消してしまえば良いことだった。そもそもどれくらいの人間が死神を見たということを信じるだろうか。と、アンリはそれくらい軽く考えていた。
そしてアディーに姿を見せたのは、本当に何も考えていなかっただけなのだということは、この目の前で端整な顔に青筋を浮かべてるユリには、とてもじゃないが言う気にならなかった。これ以上何か言われてしまうことはアンリにとって面倒だし、いくらのんきでも罵られるのは趣味ではない。
「確かにそうかもしれませんが、我々は本来、現世(うつしよ)と関わりを深くとるべき存在ではありません。あなたが何を思ってあの人間に姿を見せたのかは諮りかねますが、我々に示しがつかなくなるようなことは控えてください。あ、それと、私がここの担当であったことを感謝してくださいね」
相変わらず、にこりともしないユリが呆れたようにため息をつきながらそんなことを言って、空を仰いだ。
「もー分かったってばっ。ほんっとにユリって無愛想だよねぇ」
アンリも怒られてしまって少しは反省したのか、いやしていないのか良く分からない顔つきで言い返してユリの視線をなぞって空を仰ぐ。今日も星も月も輝いているが、その自然の煌きはこの街までは届かない。街自体の輝きのほうが圧倒的に強いせいだ。
二人は昨日と同じで劇場の屋根の上にいる。周囲には高い建物があまりなく、少しだけ坂道の上にあるここからはきらびやかな様子が良く見えた。どこかの劇場から、公演が終わったのかたくさんの人々が出てくるのも見える。人間よりも遥かに見える眼を持つ二人の視線がそこに縫い付けられる。
誰もかれも満足そうな笑顔と高揚した気持ちを持っているようで、楽しげな足取りで出てくるのを見ていたアンリが、ふと言葉を零した。
「あの子なら。もっと良い顔をさせられるはずなんだけどなぁ……」
「あの子?」
アンリの独り言を拾い上げたユリが怪訝な顔をする。しかしすぐに察しがついたのかやや呆れたように小さくため息をついた。
「なぜそこまで気になるんですか?」
「なにが?」
「あなたが姿を晒した人間のことですよ」
ふわりと、黒と白のローブが風に踊る。ユリは赤い死神の鎌を腕に抱きこむようにして持ち、長い腕を軽く組んだ。そのまま深い藍色の瞳でアンリを見つめて答えを待つ。
しかしアンリはなぜと言われても、理由なんてものないんだけど。と首を傾げた。本当になんとなく気になってしまって、そしてあの歌声になんとなく心惹かれるものがあっただけだった。なんにしてもいつもたいして深く考えていない自身の思考を他人に説明するなんてことは、なかなかに難しい。それを求められてアンリの顔が困ったものになってしまった。うんうん悩みながら何度も首をかしげているそんな黒衣の死神を、しばらく黙ってみていたユリが、そのうちに脱力するように何度目かのため息をついた。
「もう良いです」
「へ?」
「だから、もう良いですよ。あなたに聞いたことが間違いでした……」
「ちょっと……何その言い方」
切り捨てるように言ったユリに、アンリも思わずきつい眼差しを向けた。しかしユリはほんの少しだけ柔らかな笑みを見せて、自分より少しだけ背の高いアンリを見た。
「あなたは特に何かの目的であの人間に近づいたわけではないのでしょう?」
「んー。そりゃ、まぁ……」
「あなたらしいですね。何も考えていなくてそのまま行動に出てしまえるのは、ある意味うらやましいです。私はそこまで自由にはなれませんから」
「そう? ユリも結構自由だと思うんだけど」
にこっとあどけなく笑って言ったアンリに、ユリがあからさまに嫌な顔をした。
「あなたにそんなことを言われるだなんて、末代までの恥です」
「ちょ、どういう意味なのそれっ」
「私はこれでも色々考えてるんです。あなたと一緒にしないでください。でも……本当にあなたが羨ましい時があります。私にはそんな風に人間に入れ込むことなんてできないですから」
ユリが少しだけ影を落とした顔をアンリから背ける。しかしその影はすぐに消えてしまって、それがなんなのかアンリには理解することができなかった。ただあまりにも深い闇を湛えたそれに、普段からのんきな顔つきのアンリでさえ真剣味を帯びるほどだった。
「ユリ、何かあったの?」
言われたことはさておき、ユリのことが気になったアンリが夜風にローブを遊ばせながら問うた。
「別に。……昔のことですから」
ユリのいつも以上に抑揚のない声が、夜風にふわりと流されていく。アンリはそれ以上何も聞けなくなってしまって、でもあどけなく微笑んだ後、ユリの見た目の割りにしっかりとした肩をぽんぽんと叩いた。
「ユリが本当は優しいことは、僕が知ってるから大丈夫だよ」
のほほんとした笑顔でそんなことを言ったアンリに、ユリが小さく肩を震わせてその後くすくすと笑った。
「あなたに慰めてもらうだなんて、本当に恥ずかしいですね」
目許を細めたユリの言葉に、アンリがまた少々むっとした様子を見せたが、憎まれ口を叩くのはいつものことだと諦めて小さくため息をついた。