煌く夢に神の抱擁
ふるさとに対する哀愁とそこを離れたことによって得たものと、家族を捨てたことに対する後悔を歌い上げるその曲に、アンリの中にもわずかに、普段自分が押し殺している複雑な家族や自分の生まれのことを思い出させ、いつもあどけない笑顔を見せる死神の顔に暗いものがよぎる。
アディーがここの生まれではないと言うことは、昨日見かけたときの話の内容で理解していた。元々どんな生まれ方をしてどんな風に育ってきたのかは知らないが、歌っているアディーの瞳が大きく揺らぎ、潤んできている。
しかし、半分ほど歌ったところで、アディーの声が突然でなくなってしまった。
大きく呼吸を繰り返し、何度も声を出そうとしているのが手に取るように分かるが、明らかに喉は強張り、零れる声が震えている。先ほどまでの伸びやかな声量が嘘のようにかすれてしまったそれに、アンリが不思議そうに首を傾げた。
じっと注ぎ込むようにして見つめていた死神の前で、アディーの長い睫毛に囲まれた瞳から大きな雫がぱたりぱたりと零れ、あっという間にそれは止め処なく流れる涙の川に変わった。声を殺すように細い手で口元を覆い、肩を震わせているその姿に、アンリが思わず立ち上がって舞台まで近づく。
アディーはすっかり力をなくしたのか膝を舞台につき、そのまま俯いてしまった。元々小柄な身体が更に小さくなり、こらえきれない嗚咽を何度も零しては自分を鎮めようと大きなため息をついた。
「そんなに嫌なことがあったの?」
「…………え?」
まったく何も考えないうちにアンリは結界を解き、人間からすれば奇妙極まりない姿をアディーの前に見せていた。
「あ、ごめんね。急に出てきちゃって」
黒衣の死神の姿を目の当たりにして、アディーの涙の瞳は大きく見開かれた。信じられないものを見たように――いや確かに信じられないものなのだが――瞬きも忘れた人間の前に、本来は怖いくらいに整った美貌をもつ死神がのほほんとした表情で立っている、手にはこれまた信じられないくらいに大きな死神の鎌を手に。
「……あなた……ナニ?」
しばらくアンリを凝視していたアディーの唇から、やっとの思いでポロリと言葉が出る。それにアンリがあどけない笑みを見せて軽やかな声で返事をした。
「アンリって言うの。はじめまして」
「……アンリ?」
いやいや、名前なんて聞いてない。そう言いたげなアディーの視線なんか気にしないアンリがそのまま言葉を続ける。
「君って歌うまいんだねぇ。こんなにうまい人間もなかなかいないよ?」
「そう……なの?」
ぽかんとしたままではあるが、アディーが返事をすると、アンリはにっこりとまた微笑んだ。子供そのままのような無邪気な笑顔が、まったくもっておかしな格好のアンリへの不信感を多少なりとも和らげているようだ。
「うん。綺麗な声だと思う。音感も良いし。でも……」
「でも……?」
言葉を途切れさせたアンリに、アディーがやや挑むような眼差しを向けた。自分に対する評価は真摯に受け入れているらしくその先を促すように口をつぐんだ。アンリはそんなアディーをまっすぐに見つめて、少しだけ眉間に皺を刻んだ。
「歌えてないよね?」
はっきりと、しかし声音はどこまでも優しく言ったアンリに、アディーは昨日のように息を呑む。自分でも良く分かっていることを言われるのは辛いだろう。でもアンリはあえてはっきりと言葉にした。何かできるわけではないが、それでもこのままこの声を埋もれさせるのはもったいないし、歌うことへの気持ちがなくなってしまったわけじゃなさそうだと思ったから。現実をしっかりと受け入れなければ、また歌えるようになるとは思えなかったから。
「僕ね、昨日も君のこと見たんだよ?」
アンリはふわりと舞台に上がり、そのまま客席に足を下ろすようにして座り込んだ。風もないのにアンリが動くたびに黒衣がふわふわと靡き、そして妖しさを持った薔薇の香りがアディーの鼻先を掠めた。薔薇の蔦の絡みつく死神の鎌を大事そうに抱えながら、振り返り気味にアディーを見て、死神はまたあどけなく笑った。
「昨日の夜ね、裏口にいたでしょ。そのとき僕姿は消してたけど、すぐそばにいたの」
「……ねぇ、あなたはいったい何なの?」
胡散臭げな視線を遠慮もなくアディーはアンリへと投げかける。その遠慮のなさは不思議と嫌なものではなく、アンリは小さく笑った。
「僕は死神だよ」
「しにがみ?」
「そう。その日死に行く魂を常世へと導くのが僕のお仕事」
死に行く。その言葉にアディーがあからさまにぎょっとして、思わず立ち上がろうとしたのをアンリが慌てて止めた。細い手でアディーの白い手を掴んで、逃げられないようにする。
「誤解しないで。君はまだ死なないから」
「だって死神なんでしょ!?」
「そうだけど、でも君を迎えに来たんじゃないもの」
「じゃあなんで私の前にいるのよっ」
「なんとなく気になったのー。もーほんとに何にもしないよ。リストには君は上がってないんだから」
アンリがしつこいくらいにアディーの手を離さないものだから、混乱しかかったアディーと少し騒がしく言い合いになってしまった。しかしどこまでものんきなアンリの口調と雰囲気に、次第にアディーが諦めにも似た様子で全身から力を抜いてそのまま舞台の上に座り込んだ。
「ね、僕もアディーって呼んで良い?」
「なんで私の名前知ってるの?」
「だから昨日そばにいたって言ったじゃない」
疑わしそうな声でアディーが半ば睨むのを、アンリはくすくす笑って見返した。
「じゃあ、昨日の話も聞いてたの?」
「昨日の話? ……あぁ、少しだけね」
大事な薔薇の蔦を何度か撫でながら、世間話のようにアンリは口にした。それから、昨日聞いた内容はアディーにはきっと知られたくなかったのかもしれないなと、ふと思った死神は、綺麗な青紫の瞳を伏せて小さく頭を下げた。
「ごめんね。聞かれたくなかったよね」
「別に……この街じゃよくあることらしいし、それにもうみんな知ってる」
アディーの長い睫毛に囲まれた瞳が苦しげに歪み、顔をアンリに見られないように俯ける。それから大きなため息をついて、苛立ちを隠そうともしないままに流れる金色の髪を乱暴にかき上げた。少ない照明の中でも、アディーの髪は太陽の下にいるのかと思うほどに輝き、質感のよさが際立つ。まったく癖のないその髪をアンリが感心した顔で見つめていたが、いくら待っても顔を上げないアディーに向かって穏やかに微笑むと、男にしてはほっそりとした手でその髪を撫でた。
「ね? アディー。僕じゃ何もできないけど、でも話すだけでも軽くなることってあると思うの。気が向いたらで良いから話してくれないかなぁって思ったりするんだけど」
その言葉にアディーが肩を強張らせて顔を上げた。やはりアンリに対する困惑はその瞳の中に滲んでいるが、それよりもアンリが言った言葉が信じられないという様子の方が見て取れた。
「死神は悩み相談もしてくれるの?」
「まさか。僕だってそこまで暇じゃないよ」