煌く夢に神の抱擁
しゃくりあげてなくアディーの様子に、アンリの眉間にも同情の思いを見せるように皺が刻まれる。しかしやはり何もできない死神は、これ以上どうすることもできないのかなぁ、などと考えながら、その宝石のような瞳を持ち上げて空を仰ぐと、ふわりと身体を浮かせて劇場の屋根の上に降り立った。
そしてわずかな気配を頼りに、アンリが空を見上げて、大きな声を出した。
「ちょっとー!おりてきてーっ」
その華奢な身体からは思いもよらない大きな声が、人間には聞こえないが空に響き、しばらくして、星の瞬く夜空に白い何かが浮かんだ。ふわりとしたそれは風になびく真っ白なローブを着た人の形をしておりその片方の手には赤い宝石をちりばめた細やかな細工の施された、刃も柄も真っ赤な死神の鎌を持って、まっすぐにアンリに向かって降りてくる。ドーム状の劇場の屋根の上に立っているアンリの目の前に音もなく降り立って、それから膝を折って丁寧に頭を下げた。
「こんばんは」
そう言った白いローブを着た存在は、黒髪に藍色の瞳を持った神。アンリより少しだけ背の低い、しかしすらりとした印象のどこか神経質にも見える瞳が、その深い色にアンリを映し出した。
「ユリー、相変わらず愛想ないよねぇ。ほんと」
にこりともしないその白いローブを着た相手をユリと呼び、アンリは綺麗な眉間に皺を刻んだ。しかしユリは特に気にも留めた様子もなく、姿勢よく立ったままアンリを見つめた。
ユリは、アンリの下に属する死神である。要は部下みたいなものだった。世界中で数多(あまた)の魂が今生での死を迎えて常世へと旅立つことになるために、それを回収するアンリのような死神の数は膨大にいる。アンリはその中でも特に高位であり、その下にはこれも数多の数の死神が存在し、アンリはそうは見えないが、これでも統括する立場でもある。普段から何かとおかしな言動と気まぐれさとやる気のなさで、そんな風には決して見えないが、結構偉い「神様」であった。
「何か用事ですか?」
やや冷たさすら感じさせる低く落ち着いた声でユリはアンリに問いかける。それにアンリの宝石のような瞳が呆れたように眇められて、子供のように頬をぷうっと膨れさせた。
「用事があるから呼んだんじゃない。それにもう少し笑えないの?せっかく可愛い顔してるのにさ」
自分の目線よりほんの少し下にあるユリの藍色の瞳を見て言ったアンリが、まあユリの無愛想なところはいつものことかとため息をついた。それにもユリの反応は特にない。ただただ闇を併せ持つ深い色の瞳をじっとアンリに注いだままだった。
「で、用件は何ですか」
「あ、この町って何?」
「……はい?」
あまりにも言葉の足りないアンリに、ユリは虚を突かれたような顔で見返した。それにアンリが言葉を重ねる。この町の様子を細かく何度もユリに尋ねて、しばらく時間が過ぎた頃、ようやく納得したようにあどけなく微笑んだ。
「なるほどねぇ。お金とコネがあるものは簡単に成功して、本当に才能はあるけど、何も持たないものは苦労する。と」
「そうですね。ですから才能だけの人間には不利な街かもしれませんね。昔はそうでもなかったのですが、どうもここ最近の時代の流れがそうさせているようです。しかし歴史ある街なので、夢を持ってここを訪れるものは後を絶ちません。純粋に夢を追っていただけの人間が少なくなってしまったということでしょうか……」
煌く街を見つめながら、死神二人はそんな会話をする。人間よりも遥かに長い時間を持つアンリもユリも、少し寂しい気分になってしまった。文明が栄えるとともに衰退していった、本来の人の姿を思い出して。そしてそれを持っている人間がまっすぐに羽を伸ばして飛べないことに。
「どうして、そんなことを聞くんですか?」
澄んだ眼差しで街を見渡しているアンリに、ふとユリが尋ねた。
「ん? 何が?」
「あなたがそんなことを聞くのが珍しい気がしました」
「そう? まぁ、情報収集?」
大切な死神の鎌を抱きしめたアンリがにっこりとユリを見て笑う。本当ならとてつもなく綺麗な顔なのに、どうやったらこんなにのんきな顔になるんだろう。とユリが不思議なものを見るかのように、自分より高位の神の顔をまじまじと見つめ、それからアンリの言葉に少し意外だといった様子で神経質そうな瞳を見開いた。
「こんなことを言ってはなんですが、普段あまりそんなことに興味のないあなたが……おかしなものでも食べたのですか?」
淡々とした物言いに、そして失礼なことを言われたと理解したアンリが、あどけない笑顔から一転してむうっとなる。
「失礼にもほどがあるよユリっ。僕だって仕事ちゃんとしてるんだからね?」
「それは、分かっていますよ。これでも私はあなたを尊敬しているんですから」
深い藍色の瞳がからかうようにわずかに細められてアンリを見る。それにアンリは納得いかないよと、さらに子供のようにぷうっと頬を膨らませた。
頭の片隅でさっきのアディーを思い出しながら。
***
次の日、アンリはやはり気になってしまってアディーを見かけた劇場に足を運んだ。その劇場はこの街では小規模な部類入るようで、設備も古めかしく、幾度も修理を繰り返していてようやく使い物になるレベルのもののようだ。メイン通りに面している劇場に比べれば明らかに古く、どう見てもここから役者として大成する者が出るのか疑問に思わずにはいられないが、夢を持ってこの街を訪れた者はどこかしらの劇場で下積みをするようで、アディーもここで日々どんな役でもこなしているのだろうか。そんな事を考えながら、アンリは当たり前のように劇場内に入り込んだ。勿論姿を見られないように結界を張ったまま。ふわりふわりと軽い足取りで劇場の中に入り込んだアンリの耳に、かすかに聴こえ始めた声があった。
朝の劇場内は静かで、大道具や小道具などが置かれている倉庫から、衣装を置いている部屋、演者たちの控え室なども静かで誰もいない。
頭から足先まで隠れる黒衣の死神が、そんな建物の中をふらふら歩いて、一つのドアを開けた。
整然と並んでいる客席の向こうに、決して大きいとはいえないが舞台があり、そこにいた。金色の髪と大きな瞳、全体的に愛らしい雰囲気のあるアディーが。
「練習してるんだぁ」
アンリがあどけなく微笑みながらゆっくりと歩みを進め、客席の中であまり座り心地が良いとは言えない椅子に腰を下ろした。最低限の照明の中にいるアディーの金色の髪がその光を受けてキラキラと輝いている様子はとても綺麗で、アンリはその姿にやや感心したように微笑んだ。
「人間にしておくのもったいないくらいに綺麗な子だよねぇ……」
のんきな声音で大きな独り言を言っている死神ではあるが、その姿も声も勿論アディーの眼に映らないし、耳にも声は届かない。
そんなアンリの前で、アディーは大きく息を吸い込むと、まっすぐに客席を見ながら歌う。小柄な身体からは想像もつかない声量と伸びやかなソプラノ。歌っている曲目は、アンリでも良く知っている歌だった。
「確か……故郷を離れた女の子のお話だっけかな?」