煌く夢に神の抱擁
夜。
空に煌く星達の輝きも届かないほどに、地上はあらゆる色の光に溢れている。人々の楽しげな声と、音楽と活気。石造りの古い歴史のつまった建物と、近代的な建物とが入り乱れるように立ち並んでいるその街並みを見下ろして、青紫の瞳がふと細められた。
「にぎやかな町だなぁ」
のんびりとした声でそう言ったのは、夜空に紛れてしまえそうな漆黒のローブに、薔薇の蔦の絡みつく無骨なほどにシンプルな大きな鎌を持つ、端整なのにどこか子供っぽい雰囲気を持つ死神、アンリ。
「死神」というくらいなのだから、アンリの仕事は「その日死に行く魂の回収」だ。世界中で様々な原因でこの世、「現世(うつしよ)」と離れなくてはいけなくなってしまった魂を回収して、常世に連れて行く。アンリをはじめ沢山の死神が毎日そうしていることによって、この世で魂たちが迷うことなく浄化されていくのだ。
空にふわりと浮き上がったまま、漆黒のローブを緩やかな風にたゆたわせて、アンリは街を見下ろす。オモチャ箱のように楽しげな色がたくさん見えるこの街は、近隣の国を入れても例を見ないほどに、音楽の盛んな町だった。あらゆる場所から音楽に携わるもの達がこの町を訪れ、そして成功を願いつつ自分の夢に向かって頑張っている。町には大小様々なホールがあり、ジャンルを問わず毎夜必ず何かしらのコンサートやショーが行われている。
「なんか、面白そうな町」
アンリはあどけない笑みを浮かべながら、結界を張った自身の身体をゆったりとした速度で地面へ下ろした。建物と建物の間の細い路地。表どおりとは対照的にひっそりとした雰囲気のそこに黒衣の死神が音もなく降り立った。
アンリは今日、仕事でこの町を訪れているわけではない。近々ここで大量の死者のでる「事故」が起きるため、言葉は悪いが、「下見」に来ていた。のんきな様子でふわふわと黒衣の裾を風に揺らしながら歩いていると、ひとつの劇場らしい場所のドアが目に入った。裏口だろうそこには表と違って看板や派手な色彩など何もなく、ゴミ箱や搬入口のような大きなドアが横にある。木の箱がいくつか重ねるように置かれており、殺風景極まりない。まるでこの町の影そのもののようだ。そしてそれをなんとなく見ていたアンリの煌く青紫の瞳に映ったのは、一人の女性だった。シンプルな黒いシャツに黒いパンツスタイルの女性は、夏の風に金色の髪を靡かせて立っていた。俯き加減で。
「可愛い子」
そんな女性を見てアンリは、ふとそんな言葉を零した。顔立ちが愛らしい印象を与える造作で、単純にアンリの好みだったからだ。大きな目と高い鼻とふっくらした唇。少々小柄ではあるがバランスのいい体つきをしているようだと、死神は勝手に観察して微笑んだ。
しかしその愛らしい顔は、何か悩んでいるのだろうか、暗い影を見せている。アンリはなんとなくその影が気になってじっと透き通る宝石のような瞳を向けて同じように立っていた。
「なんか、悩み事でもあるのかなぁ?」
のんきな声でそんなことを言い、でも自分が何かできるわけでもない死神が、可愛い顔なのにもったいないなぁ、なんて考えながら結界に包まれたまま前を通り過ぎようとしたとき、ふと聞こえたものがある。
「ん?」
つい足を止めたアンリが通り過ぎかかった女性を振り返る。近くで見ると、女性というには若く、そして少女というには大人っぽい不思議な印象の人間のだった。
「やっぱり可愛い顔」
思わずあどけなく笑ってアンリがそんなことを言う。眼に見えない死神にそんなことを言われているだなんて知りもしない女性は、ふっくらした唇から、零れるままに歌を口ずさんでいるようだった。
「へぇ……」
その小さく聞こえてくる歌声に、思わずアンリが感心したような顔になる。本当に小さい声でつむがれているその歌は、よく下界に下りてくるアンリも聴いたことのある歌だった。そしてその声に、アンリは興味を抱いた。
「上手だねぇ」
ニコニコと笑ってアンリが耳を澄ます。アンリは、普段やる気もなく、そしてそうは見えないが、音楽に関しては天界一の耳と音感と声を持つ。自身が歌うことを嫌っているのだが、最高神の宴に出れば、必ずと言っていいほどに歌えと言われ、そして渋々その声を披露しなければいけない状況になる。それもあって、アンリは「宴」というものが嫌いだった。因みにまったく本人にその気はないが、一度聴いた曲は忘れない。そう考えると結構頭はいいのかもしれない。
音楽自身は興味があまりないだけで、聴くこと自体は嫌いではないアンリが、その軽やかで可愛らしい声を聴きながら、しかしふと気になるものを感じる。
「でもまだ、歌えてないね」
まだという表現をした死神の視線の先で、劇場の裏口が開き、誰かが出てきた。
「アディー」
金色の髪の女性をアディーと呼んだのは、深いブラウンの髪にやや明るめの緑色の瞳の体格の良い男。グレーの仕立てのよさそうなスーツを着込んだその男は、気さくな様子でアディーの前に立った。
「……恋人?」
アンリがほやんとした様子で首を傾げる。恋人というにはちょっと年の差がありそうな、でも恋愛は自由だし、と、あれこれ想像を廻らせていた死神の前で、男が大きなため息をついた。短く清潔な印象で切りそろえられている男の髪から、わずかに爽やかな香りがした。
「このままじゃ、本当に歌えなくなるぞ」
低められた艶のある声に、アディーが小さく、でもはっきりと息を呑んだのが分かった。ほっそりとして手をきゅっと握って、長い睫毛を伏せたアディーが、しばらく黙り込んだ後、ポツリと言った。
「分かってるつもりです。でも……歌う意味が分からなくなりました」
「いみ?」
二人からは見えていないアンリが、その言葉を拾ってキョトンとした。死神の鎌を大事そうに抱きしめて、しばし人間の会話を聞いてみようと思う。決して暇なわけではないが、少しだけこのアディーに興味がわいたからだ。
そんなアンリの前で、アディーが若干震える声で話し始めた。
「お金の力で主役を取られるなんて、こんなバカな話はないでしょう?」
愛らしい顔に苦悶が浮かぶ。怒りと悔しさに涙がこみ上げてくるのか、アディーが眼を閉じて深いため息をついた。
「こんなバカみたいなことで、舞台で歌えなくなって、それが原因で声が出なくなった。……私、何のためにここに来たんだろうって。こんなことなら、生まれた町のクラブででも歌ってた方がましだったのかもしれません」
最後には両手で顔を覆ってしまい、アディーの声に隠せない涙が見えた。それを黙って聞いていた男が、ふわりとアディーの金色の髪を撫でた。
「今回のことは、本当に悔しいだろうと思うけど、これがこの町の汚いところであって、確かな現実なんだ。でもなアディー、本当に実力がある人間は必ず評価されて、そして成功するのもこの町だ。だから、先は長いけど、もう少し頑張れ。お前なら絶対に成功できる」
穏やかな声音で、男は言いながら何度もアディーの髪を撫でて、子供のように泣いているアディーを慰めた。
「お金ねぇ……」