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アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一

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彼女が彼女を想う理由


 帰り道、平家は突然『プールに行きたい』と言い出した。
 中学生時代までは水泳をしていたという平家のことなので、取り敢えず付き合うことにすると、平家が案内したのは学校から駅とは反対方向に外れたところに有る、二十三時まで開いている公営の温水プールだった。
 道具を何も用意していなかったため、レンタルの水着を借りた二人は、遊泳用に半分ほど開放されたエリアでプカプカと浮いていた。
 周囲に人はまばらで、土曜の夜という時間帯が公営プールにおいてどんな時間帯なのか、よく分かる。
「子供の頃ね、ここの水泳教室に通ってたの」
「そういえば、水泳部に居たんだってな」
 祐一は肺に出来るだけ多く息を貯めながら、何とか浮いている。
 やがて、平家がパタパタと身体を旋回させると、交差するように、頭と頭が横に並んだ。
「うん、全身運動や水中運動が健康にいいんだって、お父さんの勧めで」
「お父さん…」
 祐一は、平家の父、健一の姿を思い出していた。
「お父さん、お医者さんなんだよ。藤井くん、平田くんが入院した病院にお見舞いに行ったんでしょ?あそこに勤めてるの」
 なるほど、あの凛とした決断力ある姿は、医師という職業柄のものだったのか。
 祐一は一人、密かに納得する。
 だが、言ったのは別のことだった。
「平田のお袋さんの上司ってわけか」
「お父さんは内科だから、病棟に勤めてる平田くんのお母さんとは直接関係はないんだけどね。それでも、同じ学校に通う子を持つ親同士、会えば色々会話はあるみたい」
 平家は何処か躊躇いがちに、口を噤む。
 暫しの間、沈黙が流れた。
 祐一は、敢えてその間に口を挟まずに呼吸をすることに集中していると、平家がようやく口を開いた。
「水泳、好きなんだけどね」
「こうしてると、何となく分かるよ。普段のお前は、ワザワザこんな風にに並ぶような悪戯っぽい事はしないし」
「うん、普通に泳ぐのも好きなんだけど、こんな風に浮いたり、潜ったりしているのが一番好きなの。水と一体になってるような感じが、『自分が一人じゃない』って教えてくれてるみたいで、凄く好きなんだ。記録が出るのも嫌いじゃなかったし、高校に入ってからも続けようと思ってたんだけど……お母さんがね」
「なるほど、お母さんね」
 平家の母親、確か、健一が『まどか』と読んでいたあの人のことを思い出す。
 何処か祐一の存在を警戒するようでいて、娘の存在そのものには無関心だった、あの母親だ。
「水泳は、遊びの範囲で続ける分には構わないけど、競技として続けるのはやめなさいって。腕とか太くなっちゃうと、将来アタシがお嫁に行く時に困るんだって」
「……そうか」
 平家の言う『困る』のは、平家自身のことではないだろう。
 恐らくは、平家の母親、或いは、平家という『家』のことだ。
 医者や弁護士、政治家など、ある身分の家庭同士が横の繋がりを作って出世するために、子供を医師にしたり、医師や資産家の嫁に出したりすることは、今の世の中であっても必ずしも珍しいことではない。
 女性の社会的地位の向上も有って大分事例として減っては来ているが、事例があることは事実である。
「ウチは、お母さんもそういう人でね。母方のお祖父ちゃんは、お父さんの先生に当たる人なの。だから、もしかするとアタシも、将来はそうなるのかも知れない」
「……どこも似たようなもんだな。まぁ、今の俺には関係ない話になったけど」
「……そういう人、近くにいるの?」
「田舎の出だからな。家同士がどうとかいう話は、田舎の方が風習としては多く残ってるよ。よく聞く話ではあった」
 祐一は思わず言ってから、誤魔化す。
 まさか自分こそが、『そういう物からも逃げて此処に居る』ということは、打ち明けるべきではない。
 平家と尾形にぶつけた言葉は、正しく自分が直面しながら『逃げる』という方法でしか解決出来なかった問題への裏返しでも有ったのだ。
 自分は二年も前に解決策を一人で選んだのに、何故お前たちは選べないのか。
 そう思った。
 だからこそ、アレほど激しい言葉をぶつけてしまったのかも知れない。
 葛藤をぶつけるべき相手がいれば、別の解決策を見出すことが出来たのかも知れないが、そんな存在が居なかったからこそ、今もまた『逃げ続けなければならない』。
 この問題から『逃げ続ける』事しか正解が見出せない祐一には、解決策のない話だ。
(そうか、俺は……)
 祐一は自らの焦りの正体をつかんだ。
 羨ましかったのだ。
 だからこそ、分かっている筈なのにそちらへ進むことが出来ない平家と尾形に、それをぶつけてしまったのだ。
 時を同じくして、平家が口を開いた。
「水泳、続けたかったんだよ。アタシ、家じゃあんな感じだから、学校に行って、水泳するのが凄く楽しかった。……でも、親には逆らえない。アタシ自身、伸び悩んでるのを感じていたし、こうして浮いてたり、潜ったりすることの方が好きなアタシには、競技は向いてないんだって解って、結局辞めたの。親は親で、高校では文化部に入りなさいって散々言ってたし」
 祐一が首を傾けて見た平家は、眼を閉じている。
 あくまで、自分のペースで、独り言のように語りたいのだろう。
 祐一は、平家に付き合って白い天井を見上げると、目を閉じる。
「そんな時にね、『どうしたの?何か有った?』って、結衣ちゃんがアタシの相談に乗ってくれて、誘ってくれたんだ。『水泳出来ないなら、高校に入ったらコーラス部においでよ』って。……嬉しかった。部活動も引退してたし、もうプールには、自分の居られる場所はないんだって思ってたから。一緒に居てくれて、『一緒に歌おう』って言ってくれて、『コーラスなら、皆で一緒に一つになれるんだよ』って教えてくれて、凄く嬉しかったんだよ」
 水の音が跳ねる。
 平家は腕で顔を隠しているようだった。
「文化祭で初めて見学に行ったときが、結衣ちゃん達、中学三年生の引退式も兼ねててね。それを聞いて思ったんだ。『音の流れは、水の中で感じる流れと一緒かもしれない』って。それで、決めたの。『高校に入ったらコーラスをやろう』って」
 徐々に、過去を語る平家の声が歪み始めている。
 此処から先が、恐らく間違いの始まりだ。
 祐一はそれを直感した。
「その頃からだったんだ。……結衣ちゃんは高校の演劇部の公演に誘われて、『学園の妹』なんて呼ばれるようになって、急に、顔も知らない人から告白されることも増えてきて。最初の頃は、自分で断ってたんだけどね。ある時、知らない高校生の先輩に、街中で強く迫られて……。幸い人が通りかかって何事もなく済んだんだけど、それ以来、怖がった結衣ちゃんには、どうしても告白を受けても、お返事出来なくなっちゃって……」
「……『代わりにお前が行くようになった』ってことか。それが相手にとっては『残酷な行為』で、尾形に対しては『甘やかし』になっている事に気付きながら、続けてしまったんだな」