アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一
『敵』⇒『猫』⇒『アイン』
教科書の入った紙袋を持ったままあちこち案内されたせいで、紙袋の底が破れそうだった。
結局、祐一は夕飯の買い物を済ませつつ、紙袋の惨状を見かねた店員のお姉さんに『大きな袋用意しましょうか?』と訊かれ、現在は紙袋を外側から大きなビニール袋で覆っている状態で教科書を持っている。
他に購入したのは、野菜のいい店でキャベツとトマトと人参、オニオン。肉のいい店で合い挽きを購入した。
夕飯はロールキャベツの予定。
しかも、どこから見ていたのか知らないが、祐一の足元を見慣れた『敵』がうろついていた。
「お、『アイン』じゃん!流石住人。もう懐かれてるのか」
「『アイン』?」
足元の『敵』に手を伸ばす平田だが、『敵』はスッと平田の手から逃れる。
まるで、『アンタに触られるほど気安くないのよ』と言わんばかりの態度。
『敵』
そう、入居を決めた日不動産屋の後ろで欠伸をし、入居初日には祐一が仕込んだ仕掛けを外さんとし、それ以来折に触れては祐一の部屋の中を狙っている、あのアッシュグレイの猫である。
「『ミドリさん』の飼ってる猫だよ。『アインシュタイン・ハイツの猫』だから『アイン』。俺は『アイン』って呼んでるけど、他にもなんか色々言われてるな。『シュタイン』とか、うちの近所のガキどもだと『アイちゃん』とか」
『敵』は自分の話が出ていることを感じているのか、自分が呼ばれているらしい単語が一致するごとに耳をひくつかせていたが、それでも平田にはつれない態度を崩さない。
そのくせ、平田からは離れる割に荷物の多い祐一の足元には寄ってくる。
いや、多分挽肉の匂いにつられているだけなのだと思うのだが、その都度蹴り飛ばしそうになるので慌てて歩調を落としたり、荷物を持ち上げたりと、歩みが落ち着かないことこの上ない。
「もう触ろうとすんなよ。コイツこっちに避けるから邪魔」
「つれないなぁ、『アイン』」
平田がつまらなさそうに肩を竦めるが、『敵』はあっさりとシカトした、その直後だった。
「ナアァァン!」
『敵』が急に鳴き声を上げると、祐一の目の前を横切って道路へ飛び出した。
「うわっ!?」
祐一は思わず、荷物を『敵』から遠ざけながら、その行き先を目で追う。
その瞬間だった。
二人乗りの原付バイクが、車体を斜めに傾がせながらこちらを掠めるように手を伸ばしているのが目に入る。
(ひったくり!!)
祐一は反射的に体を開くと、左脚を跳ね上げ、右足が爪先立ちになったところで原付のハンドル部分をまたぎ、一気に打ち下ろす。
ムエタイ式の打ち下ろしキックだった。
明らかにカウンターでひったくりの胸元に入った一撃は、原付の勢いも有って後部座席に座っていたもう一人の男をも吹き飛ばし、バラバラに地面に横転させる。
原付は滑って転がり、片側しか無いミラーが粉々に砕け散った。
二人組のひったくりはともに受身が取れていないようで、倒れたままぐったりしている。
ヘルメットをアスファルトにぶつけて脳震盪でも起こしたようだ。
『おぉ〜!!』
周囲に驚嘆の声が漏れると共に、明らかにブランドものと思われる白やピンク色のハンドバッグが三つほど地面に転がり落ちる。
「どろぼーう!!!」
祐一の視界の奥、原付のやってきた方向から、女性の叫び声が聞こえた。
その瞬間、我にかえった商店街の住人たちがワラワラと駆け寄り、ひったくり犯を押さえ込み始めた。
それを見て、祐一の方も我にかえる。
目立ってる場合じゃない。
「やっべ、逃げるぞ」
「え、何で!?」
祐一は平田を促すと、一目散にその場から逃げ出した。
「なぁ、何で逃げんの!?お前ヒーローじゃん!?」
祐一の斜め後ろをダッシュしながら、平田が訊ねる。
「ばっか、アレ骨折れてんぞ。明らかに過剰防衛だ。寧ろこっちが何の被害もない分、傷害事件になりかねん!」
祐一の足には明らかに異常な感触が残っていた。
祐一の足自体は何とも無いが、入学式で卸したての革靴の硬いつま先が胸骨のど真ん中に入ったのだ、明らかにめり込んでいる感触がした。
「マジで!?」
「なんか明らかに嫌な感触した!」
驚愕に震える平田に、手応えを説明する。
反射的にとは言え、やりすぎだ。
「入学早々退学はゴメンだ!」
平田の顔色がやや蒼白になったように見えた。
実際には、やばいのは祐一の方であって、平田が一緒に逃げる義理はないのだが、その場で平田にうっかり祐一の素性をばらされようものなら折角してきた今までの準備やこれからのプランは総て水泡に帰す。
つまり、平田を巻き込み、尚且つ混乱に乗じて彼も同罪であるかのように振舞うのが一番だったのだ。
「ここで別れよう。二人組だと余計バレる。お前は地元で面が割れてるから、『知らぬ存ぜぬ』で通してくれ」
「がってん!」
かくて、平田と別れた祐一は一人、迂回路を探して路地裏へと入り込んだ。
路地裏に入って数度道を迂回した後、何事もなかったかのように駅前の方向へUターンした祐一は、駅前のコンビニで一時間ほど週刊少年誌を立ち読みしてから、適当に買い物をして店を出た。
既に両手いっぱいに荷物を持っていた祐一に、コンビニの店員のお姉さんは気を使って『荷物、大丈夫ですか?』と訊いてきたが、ダメだと言ったところで、自分がレジに運んだ以上どうなるわけでもないので『大丈夫です』と答えて店を出る。
正直、そこから二十分もの移動は明日の筋肉痛を引き起こしそうだった。
必死になって三階まで荷物を運ぶと、階段を登ったところにある日陰に、先程悠々と道路へ飛び出した『猫』が寝そべっていた。
「ただいま」
帰宅しても挨拶する相手が居ないのは何となく寂しく感じたので、祐一は一応声を掛けることにする。
『猫』は相変わらず耳を一瞬だけひくつかせると、そのまま薄く開いていた目を再び閉じた。
それから302号室のドアの、前回より少し高い位置に仕掛けた自分の髪が『猫』によって弄られていないことを確認すると、幾つかの手順で異常がないことを確認してからドアを開き、部屋に戻る。
「はぁ………。学校より学校外で疲れた」
荷物を下ろし、買い物した食料品を冷蔵庫に、教科書を壁に立てかける。
制服をハンガーに掛け、靴下を変えて、ジーンズと長袖シャツの上からパーカーを羽織ると、ようやく人心地ついた気がした。
TVをつけようかとリモコンを探していると、部屋のドアをカリカリと擦る音がする。
が、祐一は敢えてそれを無視して、TVを点ける。
カリカリとドアを擦る音は、止まない。
何が言いたいかは、察しがついていた。
「あーもう、分かったよ」
祐一は床に置きっ放しにしていたコンビニの袋を取り出すと、中から購入したものを取り出し、タンスの引き出しからパラフィン紙を一枚抜き取る。
それから扉を開けると、当たり前のようにちょこんとそこに座っていた『猫』が中に入らないように速やかに外に出て、パラフィン紙を廊下に敷く。
「いいか、一時間だ。コレをどうするかはお前が決めていいが、一時間経ったら回収するし、コレで貸し借りなしだからな」
『パカッ』と、軽快な音ともに缶が開く。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一 作家名:辻原貴之