アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一
文系はその日授業でやる部分を総て、余白を作りながらノートに丸写しして、自力で訳と解釈をつけておき、授業で正しい答えを聞いたらそれを修正して行く。
理系も同様にノートに余白を作りながら丸写しして、理解できない単語に線を引いておき、授業を聞いても分からない単語の意味はWebページで理解出来るまで読む。
ノートの量は大量になるだろうが、恐らくこれが一番『時間が掛からない学習方法』だろう。
特に、現状どうやったところで必ず高認試験を受験しなければ正式には大学へ行けない立場なので、他に方法はない。
因みに、一通り説明を終えた後に一応自己紹介らしき場も設けられ、祐一は準備していた言葉をメモでなぞったように可もなく不可もなく終了した。
準備してきたことと違うことといえば、割と個性を発揮していたり、逆に宜しくお願いしますの一言で終了する人間の振り幅が大きかったので、準備しておいた趣味や特技を省略したくらいだ。
そんな所で『ボロ』が出るのは、何より避けたい。
それを終えて初めて、その日は晴れて自由の身となった。
「よー、藤井っち。もう目は覚めたか?」
片付けをしつつ、貰った紙袋の中身(教科書)の重さに辟易していると、前の席から声が掛かる。
先程入学式の最中に祐一を起こしてくれた、キツネ顔の少年だ。
「あぁ、えーと、平田くんだっけ?」
「そうそう、平田健(ひらた・たける)。改めて、よろ〜」
「おう、よろ〜」
多分『よろしく』という意味だろうが、取り敢えず同じ様に答える。
実は祐一は、元が田舎暮らしの上に日本にいた頃は隔離されているに近い教育環境に有ったため、そういう『略語』を使う習慣はなかった。
何となく使いそうな言葉を覚えるために終始掛けているラジオやTVから流れてきているような聞き覚えが有ったのが幸いした。
「此処で会ったのもなんかの縁、メアド交換しない?」
平田は糸目を一層細くすると、ゴールドとイエローの中間色のようなケバケバしい携帯電話を取り出し、『ヘイ・カマーン』と縦に振る。
携帯までキツネ色なのか、この男は。
なるほど、これが今の日本社会という奴か。
「あー、悪い。実はウチ貧乏で、俺、まだケータイ持ってないんだよね」
嘘である。
が、交換しないための高校生の口実としては、これでいいと聞いたことがある。
実際、あのハイツに一人暮らしていることを話せば事情は勝手に察してくれる(誤認では有るが)だろうし、あからさまに拒否するのは日本人の礼儀の中にはない…らしい。
「一人暮らしで何かと物入りだから、いずれは買うつもりではいるんだけどさ」
「え、一人暮らし!?何々、どこ住んでんの?」
「えーっと…ここから自転車で十五分くらい行ったところにある『アインシュタイン・ハイツ』っていうアパートみたいなのなんだけど」
「うっは、『ミドリさん』のハイツだ。女子大生とか住んでるんじゃね?それ、凄くね?え、何で一人暮らしなの?」
「あぁ、両親が海外に行っちゃって。『長期になりそうだから学校が多いこの辺に住め』って言われて田舎から出てきたんだよ。それより『ミドリさん』って?」
祐一は前日から用意していた言い訳をして、話題を変えるべく、質問を返す。
「しらねーの?『ミドリさん』、このへんじゃ有名人なのに」
「有名人…なの?」
「いっつも『VOICES(ヴォイシス)』に居て、ボーッとしてる、白黒で、すっげーでかくて、ひょろ長い人」
平田がオーバーアクションで『ミドリさん』らしき人を表現するのだが、身長の高さ位しか判断材料がない。クイズをやったらきっと誰も答えられまい。
「白黒で、でかくて、ひょろ長い??…管理人さんのことかな??」
というか、他に記憶にある人物が居ない。
あのハイツで交流のある相手を探すとすると、毎度自分の細工を弄ろうとする難敵の猫が一匹いるだけだ。
隣家はどういう訳かしょっちゅう出前が行き来しているので迂闊に引越しそばなど持っていく雰囲気でもないし、そんな事も有って反対側の隣にも挨拶しそこねている。
すれ違えば会釈程度はするが、それが住人なのか器を回収に来た出前持ちなのかも分からないので、同じフロアに住んでいる人に会っていたとしても顔と名前が一致しない。
引篭もりと思われるのも感じが悪いし、溶け込んでおくに越したことが無いので、面と向かって挨拶くらいはしておくべきなのだが、今のところタイミングが合わず、人見知りの田舎者が一人気圧されている、というのが現状だ。
いや、いっそ乾麺を持っていけば満腹状態の上に蕎麦を持っていくという空気の読めない出来事になる可能性は減るのか?
実家のある場所の習慣では、蕎麦を持っていって目の前で一口いただいてもらうのを見てから次の家へ行く、という習慣だったのだが。
それにしても、なるほど『ミドリさん』か。
管理人さんの名前は『ハーマン・グリーン』。
それで『ミドリさん』か。
表札をきちんと確認していないので、実は綴りが違うんじゃないかという気もしたが、不動産屋の紹介も間違いなく、ベタな日本語発音で『緑』のグリーンさんだった。
「へー、あの人管理人だったんだ。あーっ、だからいつも商店街のカラオケとか出てるんだ」
「カラオケ?」
「俺は商店街の辺りが地元だからさ。町内会の祭りとか行くんだけど、普段無口なのにカラオケになるとスッゲーの。『天城越え』とか歌うんだぜ。しかもめっちゃ熱唱」
「あの管理人さんが…『天城越え』?」
『天城越え』は流石に知っている。
石川さゆりで有名な演歌の名曲の一つだ。
但し、祐一は石川さゆりの発売当時の世代ではなく、『J-ANIME-OTAKU』である海外の知人の所為で、水樹奈々のイメージのほうが強かったが、動画サイトのリンクで『原曲』として見たことがある。
たしか原曲は、祐一が生まれる十年くらい前の曲だ。
あの体格で『天城越え』を熱唱されるとどんな感じになるのか興味はあったが、あの独特の『ぎ〜』は出ないんだろうな、と勝手に推測した。
「…まぁ、趣味嗜好は人の自由だし、別に構わないけどさ」
祐一がため息を付いて荷物を確認すると、平田が後からついてくる。
「帰る方向一緒だろ、一緒に帰ろうぜ」
「俺、今日はバスなんだけど」
自転車で十五分くらい、と説明したものの、一年生が入学式から自転車置場を使ってもいいものか考えた挙句、今日はバスで来たのだ。
確か、入学案内にも『初日は荷物があるので自転車は避けるように』と記載されていた。
「俺も俺も。じゃぁ丁度いいじゃん」
「あぁ。まぁ、そうだな」
下手をするとハイツの中にまで入ってきそうだったが、祐一は取り敢えず頷くことにした。
いっそのこと、外出が一回で済むように商店街までバスに乗って出てしまい、最近鈍りがちだった身体に喝を入れる意味でも夕飯の食材を仕入れて徒歩で帰宅するのもいいかも知れない。
祐一は平田とともに、教室を出ると、裏門にあるバスの停留所を目指した。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一 作家名:辻原貴之