アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一
入学式と平田健
「…い。…ぉい、起きろって」
起こされた。
というか、完全に船を漕いでいたことに、その時点になって気付いた。
足元が寒く、下はビニールシート。
座っているのはペラッペラのパイプ椅子。
そしてやや上方から聞こえてくる、退屈極まりないおっさんの声。
祐一は、その状況を把握してようやく自分が入学式の最中、誰かが訓示を垂れている時に居眠りしていたのだと気付いた。
浅く眠っていただけのつもりだったので、油断していたわけではないのだが、自分で思っていたよりも隙だらけだったらしい。
「…ぁ、あぁ、悪いな。なんか俺、イビキとかかいてた?」
起こしてくれた隣の少年に確認する。
隣の少年は糸のような細い目を一層細くすると、『うんにゃ』と首を振る。
元々細面だが、そうやって目を細めると何処かキツネ顔に見えるのは髪が軽く茶色く染められているせいでもあるだろう。
海外生活を経験した祐一に言わせると、何処の国でも若者には髪を染める傾向が有るが、生まれ持った髪質の美しさを保つことが一番美しく感じるのは日本ばかりだ。
簡単に言えば、基本的にモノトーンで、染色の文化的に未熟な日本は『下手な染め方をしている』のだと思っている。
漫画やアニメで色々な髪の色をした人物を見ているし、昨今は海外でも日本の影響を受けている節があるのでそれがおかしいとまでは思わないが、日本人は『皆同じ』がいいという文化の所為か、『取り敢えず染めてる』というやり方のうまくない人間が多すぎるような気がする。
本当はそれに倣えば祐一も軽く染めるべきなのだろうが、手入れの手間を考えればそれより先に投資しなければならない部分はたくさんあった。
祐一がキツネ顔の茶髪をしげしげと眺めていると、キツネ顔の少年の方はそれを寝ぼけているのだと思ったらしく、続けて言葉をかけてきた。
「どっちかと言うと、唸されてたからさ。寝るのはいいけど、唸されんのは良くないだろ、やっぱ」
「あぁ、そう。そりゃどうも」
祐一は目を数度、瞬かせると、改めて周囲の状況を把握する。
式次第によると、この後は全員起立で校歌を歌うらしい。
『私立桜丘学園 校歌』
パンフレットの最後尾に書かれた歌詞には、脇を囲むように桜の木が描かれている。
それを見て、来るときにも桜の木を見かけたことを思い出した。
現在の余裕と隙に満ちた訓示の風景といい、実に長閑な光景である。
平和すぎて眠ってしまった、なんて言ったら、やはり怒られるだろうか。
(校歌だって)
賛美歌を歌うのと同じ位に、呆れてしまう。
正確には、あまりにも懐かしい風習だった。
祐一は中学に入ってから三年間、日本に居なかったからである。
因みに、小学校の頃はかなり距離のある私立の学校に、電車で通っていた。
従って、実家のある某県に戻ったとしても、地元の人間も殆ど彼を覚えていないだろう。
父は外交官で、母は日独ハーフのピアノ演奏家。
つまり、祐一自身もクォーターということになるのだが、どういう訳か多少『濃く』見えるという顔の造形は父方譲りで、日本人以外の何者でも無い。
中学に入って、父が英国勤務になったため、向こうの学校に通ったのだ。
因みに、あちらの学校では賛美歌を歌う風習が有ったが、別に校歌というものは存在しなかった。
正確には、存在したのかもしれないが歌った記憶がない。
中学に入ってからの祐一は、どちらかと言えば『タチの悪い外国人』の部類だったろうと自分でも思う。
ご多分に漏れず『外国人の転入生』としてイジメにあったが、子供の頃より祖父に『仕込まれていた』祐一は肉体面では歯牙にも掛けなかったし、言葉の面では当時は意味が分からなかった。従ってその後は所謂『陰湿な』イジメに路線変更になったのだが、こちらの様子を見てヒソヒソと何かを話している人間全てに報復を行ったところ、次第に収まった。
幸い、祐一は当時寝起きに困った事が無く、クラスの誰よりも先に登校していたため、自分の教科書や荷物に悪戯をする人間の殆どを把握していたし、『陰湿かつ残酷な手段』に関しては戦争体験のある祖父に育てられた所為か、彼らより上手を行っていたのである。
その報復手段については『ちょっとくらい指が飛んでも再生出来る、再生医療の進んだ時代でよかったね』とだけ言っておくことにする。
今でこそ沈静化しているが『あの事件』が有った時も、生意気にも生き残り、その時のツテは今日こうやって一人暮らしするのに大いに役立っている。
(『あの人達』はあれこれ言うけど、やっぱり俺にはこっちの生活のほうがソリに合ってるしな)
今更あそこに戻る気は全く無いし、正解の存在しない争いに巻き込まれるのは真っ平ご免だったが、使えるツテは使うべきだ。加えて、本格的な争いが収まっている今だからこそ出来ることも少なくない。
平和というのと、無神論者が多いと言うのはなんと幸せなことなのか。
日本に戻って以来の実感だった。
後は二年半後、十一月にある高等学校卒業程度認定試験まで家族の目に触れなければいいのだが、それはまた厄介だった。
(高認は受けさせてくれる約束になってるけど、それまでもつかな)
ふと、新たな塒になったあのハイツを思い出す。
いざとなった時の逃走経路はしっかり確保したが、逃走した後のセカンドハウスを用意しなければなるまい。
後は、『次の名前』と、この学校が見つかった時の代わりの学校か、高認受験用の予備校だ。ただ、普通に転校などしたらすぐに足が付くだろう。裏を掻いて普通に転校、という手がないではないが、数カ月のブランクは覚悟しなければならないし、その間の受験勉強を総て独学にするというのは些か心許ない。
(通信教育系の学校に登録だけしておいて、いざとなった時にそっちに切り替えるのが確実か。予備の戸籍だけ用意させておくかな…)
そこまで考えたところで、マイクのやや甲高い中年男の声が『新入生起立』と告げた。
無事に式典を終えてゾロゾロと教室に戻り、可もなく不可もないホームルームと自己紹介を終えると、今度は教科書の配布。
入学式を行った講堂の他に存在する体育館で退屈この上ない順番待ちをしつつ、めでたく教科書を手にすると、今度は教室に戻って各教科書の確認と、各授業担当からの『予習方法の伝言』を賜る。
五十分授業六時限というスケジュールを課せられる中、どの教科でも『一時間程度の予習をしてきて下さい』という無茶な要求が繰り返されたのには正直に言えば苦笑してしまった。
朝八時四十五分から授業が始まって、昼休みが十二時三十五分から、十三時三十分から授業が始まり、総て終わるのは十五時二十分である。
清掃作業はそれから四時まで。
土曜日も隔週で五時限の授業があるが、五時限目は自習時間となっており、部活に所属している場合は土曜の五時限目だけ免除される。つまり、幽霊部員でも部活に所属しておくのが正しい態度だろう。
一時限五十分の授業を受ける為に事前に一時間の予習をしてこい、というのはかなりのムチャ振りのため、祐一は早々に要点を絞ることにした。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一 作家名:辻原貴之