アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一
尾形結衣の認識
「うぃーっす!」
教室のドアが開くと、二人の少年が教室に入ってくる。
一人は短髪、ツンツン頭のガタイのいい少年で、もう一人は最初の少年より体格の劣る、糸目の少年だ。
糸目の少年は入り口でガタイの良い少年、池本翔平と手を挙げて別れると、コチラの方へ近寄ってくる。
糸目の少年の名は平田健。
祐一よりも僅かに高い身長に、やや細身の茶髪の男だ。
この程空手部に復帰した、これでも『学園のヒーロー』らしい。
朝練に出た直後なのであろう、その茶髪は僅かに乾いておらず、シャワーを浴びた後なのが感じられる。
ていうか、コイツいつまで茶髪でいる気なんだろう。
そろそろ大会の一つも有るだろうに、平田健の髪の毛は相変わらず茶髪のままだった。
「おっはよう、藤井っち。今日もテンション低いねぇ」
「お前は朝から元気だな」
別に祐一のテンションが低いわけではない。
明らかに空手に戻ってからの平田のテンションが高いのだ。
「まぁ、スポーツ少年ですからね、こう見えて!」
平田が胸を張る。
「……そういえば、スポーツ少年ならその外見はそろそろ直した方がいいな。古来武道をする人間は髪を染める暇も有るようならば修業をすると言うことだし……墨汁持ってきてやろうか?」
「やめて!せめてちゃんとしたもので染めて!そんなもんで染めるのはやめて!いや、マジで染まらないから、それじゃ」
がっちり平田の頭を掴んで席を立とうとする祐一を、平田が必死に引き止める。
「え、何?『墨汁大好き?』そうかそうか、そんなに好きか」
「え、何言ってんのこの人!スッゲー怖いんですけど!」
教室内のアチコチからクスクスと笑いが漏れる。
平田は人気の面でも、クラスの、いや、やはり『学園のヒーロー』なのだろう。
「藤井くん、冗談は程々にね」
クスクスと笑っていた中の一人、平家あずさが祐一の背中を軽く叩いた。
『持ち上がり組』として教師陣の覚えがよく、『クラスで一番頼れる人』にして、女子のリーダー的存在。
それが平家あずさだ。
「そうよ!アンタ仮にも平田君に対してちょっと馴れ馴れしいのよ!」
そう言ってあずさに同意したのは…誰だ?
やや低めの身長に、軽くパーマ…と言う程でもないナチュラルなウェーブが入った、茶色掛かった髪。
それに対してスラリと伸びた手足は、身長のことさえ無ければモデルとして通用するだろう。
まぁ、現状は子供服のモデルかも知れないが。
「まぁまぁ、結衣ちゃん。藤井っちはコレでいいんだって。なんつーの、こう、愛って奴?」
平田がくるりと頭を掴まれたまま反転すると、声を掛けてきた小さい女……結衣ちゃん(仮称)に答える。
「………………どうやら本気で墨汁に浸かりたいらしいな」
「ドウドウ、藤井くん。ストップストップ」
ふつふつと沸き立つ怒りを平家が止めに入るので、祐一は已む無く平田の頭を鷲掴みにしていた手を外した。
「うぉあ、イテ。先輩の打撃より効くぜー、藤井っち」
「空手は基本的に、頭部への打撃は禁止だろうが」
「おぉっと、こりゃぁ一本取られたね」
おどけて自分の額をピシャリと平田が叩く。
「洒落が効いていると思って誤魔化すなよ」
ゴールデンウィーク中の出来事を思い出して、祐一は苛立って睨みをきかせた。
「ちょっと、アンタ。入学した時から思ってたけど、平田君にくっつき過ぎなのよ!空手部でも『内部生』でも無いくせに!」
おどける平田と苛立つ祐一の間に、結衣ちゃん(仮称)が眉間にシワを寄せて割って入る。
割って入られた祐一は、暫し、考える。
「……悪いんだけど、君、名前何て言ったっけ?」
そして、結局考えていたことをそのまま訊ねた。
「………え?」
目の前の結衣ちゃん(仮称)が絶句する。
クラスメイトなのは覚えているが、祐一にとっては結衣ちゃん(仮称)はそれ以上でもそれ以下でも無かった。
これだけの美少女なら祐一の琴線に触れない筈も無いが、確かこの少女は入学式直後の自己紹介の時、早口で名乗ったきり、さっさと出番を終わらせてしまったことだけは覚えている。
早い順番で回ってきたので、多分『結衣』は苗字ではなく名前で、苗字は『あ行』か『か行』のどちらかだと思うが。
「オイオイ、藤井っち。幾ら藤井っちが『外部生』とはいえ、『学園の妹』尾形結衣ちゃんを知らないってのは、桜学の流れに遅れすぎだぜ」
唖然としている本人の代わりに答えたのは、平田である。
因みに『桜学(おうがく)』というのが『内部生』とか『持ち上がり組』が呼び馴らす桜丘学園の略称だ。
どうやら、『持ち上がり組』の間では有名人らしい。
「ふーん。で、その尾形さんは何で俺と平田がつるんでるのが気に入らない訳?」
「………だって!」
「結衣ちゃんが『学園の妹』なら、平田くんは『学園のヒーロー』だもんね」
尾形が言うよりも先に、平家がにっこり笑って尾形の頭を撫でる。
なるほど、『ヒーローのお友達』の座を巡る、乙女ならではの嫉妬というわけだ。
「……こんなので良いなら、いくらでも好きにすればいいよ。寧ろ俺から見ると、貸ししかないし」
「つーれないこと言うなよー、藤井っち。妹たちも優も懐いてるわけだしさ。俺の代わりにお祭りにもつれてって貰った仲じゃないか。仲良くしようぜ、未来のマイブラザー。『お義兄さん』って呼んでいいんだぜー」
平田がその場でクルクル回転しながら『I LOVE YOU!』とパッと両腕を開いた。
平田という男、実は前回の出来事で本格的に頭に障害が残ったのではなかろうか。
『………………』
「い、妹さん達が…懐いて…」
その場に居る殆どの人間が平田に半眼を向ける中、何故か尾形は強力なライバルが現れたかの如くワナワナと震えだす。
「『貸し』じゃねぇか、明らかに」
「うん、どう聞いても『貸し』だよね、それ」
祐一と平家が呆れて頷き合う。
GW中の一連の出来事は、祐一に少なからずダメージを残していた。
クラスメイトの中にも、完全にロボット状態の祐一の姿を目にしたものがいたらしい。
組体操の『扇』を、更にバージョンアップした状態と言い換えてもいい。
左右の腕や頭が勝手に動かない分だけ、『扇』であった方が楽だったと思う。
一方で、尾形の変なテンションには拍車が掛かっていた。
「…妹さんが懐いてて…未来のブラザーで…仲良しで…」
「おい、なんかコイツおかしくねぇか?」
ワナワナと震え続ける尾形を後ろ手に指差して、祐一は平家に訊く。
「結衣ちゃんはね、こう見えて恥ずかしがり屋さんなんだよ。藤井くんの存在をどう認めるべきか考えちゃってるんだね、きっと」
平家が困ったように、しかしあっさりと切り返した。
女傑。
この女、女傑だ。
「いや、そういうレベルの問題じゃないよね?なんか明らかに問題を履き違えてるような気がするんだけど」
尾形はそのうち恐慌をきたして暴れだしそうな雰囲気を醸し出している。
というか、声から『視えて』くるオーラが、何かを履き違えているのを明確に示している。
「平田くんと…兄弟で…仲良しで…べったり」
尾形がベクトルを見失って遂に暴れだすかと思われたその刹那、始業を示すチャイムが鳴った。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一 作家名:辻原貴之