アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一
そして、皆、笑う
「おはようございます」
たまたま教室に向かうところだった担任教師に、祐一は挨拶する。
事後処理は大変だった。
概ね荷物を処理した後に警察が事情を聞きに来たまでは良かったとして、その際家の様子がどうだったとか、上がり込まれて色々訊かれたのである。
余計なことは何も言わなかったし、警察も素直に帰ってくれたが、暫く荷物は隠したままになることだろう。
その後、携帯にジェニオから電話が掛かってきて、やりすぎだの何だのと責められた挙句、報酬を巡って一悶着。
結局、眠ったのは深夜になってからだった。
お陰で今日は、こんな時間の通学である。
しかも、『リミッターオフ』を使った所為でかなり強力な筋肉痛になっている。
当初より自分の筋肉が悲鳴を上げているのは分かっていたのだが、頭に血が上っていたこともあって無意識にアドレナリンを過剰に流してしまっていたらしい。
『自分の限界』を理解するためにも、脳内物質の過剰分泌はジェニオにも制限されていたのだが、無意識では仕方ない。
「…あぁ、藤井君。昨日は大変だったわね」
苦心して階段を登っていると、後ろから声を掛けられた。
担任の英語教諭である。
警察から学校にも連絡を入り、『こういう感じで事情聴取をした』という報告が入っていたようで、担任は既に状況を把握していた。
「先生こそ、目の下に隈が出来てますよ」
「仕方ないでしょ、担任のクラスの子があんなことになったんだから」
「随分暴行されてるって聞きましたけど、平田、大丈夫なんですか?」
「えぇ、そこは流石にチャンピオンね。本当に重要な芯は外して受けられてたみたい。骨も肋骨くらいしか折れていないそうよ」
「…そうですか」
祐一はほっと一息つく。
アレで手遅れだったら、その原因の一つは祐一の所為だろう。
同時に、桑原に襲いかかられた明日香や、暴力を振るわれていたような跡があった遥、優の心に、トラウマのようなものが残ってしまわなければいいが、祐一の技量ではあそこまでしか出来なかった。
その『遅れ』を後悔しながら、祐一は階段を登る。
いや、そもそも、『誘拐させてしまった』事自体が祐一の失敗だろう。
そのツケがこの筋肉痛程度で払えるとは思えないが、今はこの失敗を噛みしめて次回はもっと上手くやることを考えるしかなかった。
「それより、ニュース見た?警察突入して、錯乱した桑原さんが自殺しようとしたって」
「あぁ、見ました。でも、執行猶予中だったんでしょう?そういう事も有るのかも」
発砲事件でも有るこの事件は対外的に隠しきれなくなり、ニュースでは『警察は突入して人質を救い、犯人グループの鎮圧中に主犯格の桑原が自決を図った』と言うことになっている。
当然、警察は自分達の仕業でも無いこの件に不信を抱いているだろうが、祐一自身は『人間には不可能な速度』で屋根の上などを移動していたし、ロープ等のことも処理してから警察との対話に臨んでいたことも有って、アリバイとしては問題ない。容疑者のリストに挙がることはないだろう。
当面、祐一自身には、この筋肉痛を除けば何の問題もない。
「桑原さん、いや、もう桑原って呼び捨てにしてもいいわよね。内臓の隙間を上手いこと縫って銃弾が通過していて、一命は取り留めたらしいわ。これで安心して裁いてもらえるわね」
それは祐一が一番良く知っている。
そのような位置を撃たせたのだから。
「意外と度胸がありませんね。自殺するなら顎でも撃ち抜けば良かったのに」
「あまり過激なこと言わないの。怖いこと言う子ねぇ」
「スミマセン。でも、友人をそんなにされて、怒らないほど大人でもありませんよ。優や他の妹達とだって、この間一緒に晩飯食ったんです。知ってる人がそんな目に遭って、悪態の一つもつかずにいられるほど出来た人間じゃありません」
「…まぁ、若いって良いわね。でも、あまり表でそういうことは言わないように」
「はい、すみませんでした」
祐一は自転車通学なのでやり過ごすことができたが、登校時には、学校の周りには既に報道陣がいた。
要するに、そこで過激なことを言うな、という意味だ。
一限が始まる前の連絡事項にも組み込まれているに違いない。
「…あぁ、後ね。この件も有って、予てから先生たちと商店街の人たちで頑張ってた、『平田君の処分を完全に解いて、空手部に復帰させよう』って話が、改めてあちこちから出てきてるみたいなのよ。雑誌からコメントを求められたり、学園のWebページにもそういうメールが沢山来てるんだって」
「復帰、ですか」
これは、元々の世論に上手いこと乗せて、ジェニオが情報を流してくれたお陰だろうと祐一には推測出来た。
もしかすると、そこまでする必要もなく、この話は動かせたのかもしれない。
いずれにせよ、今まで平田のために動いていた人たちにとって、大きな成果だろう。
「そう。今まではフジさん中心に先生たちが商店街の人たちと一緒に頑張ってたんだけど、今回の件でもう一回、世論の後押しが出てきたみたい。校長先生も今朝は乗り気になってたわ。藤井君としては、折角できた友達が部活三昧になって、ちょっと寂しいかも知れないけどね」
フジさん、というのが藤山教諭のことであるのは、『トランスレイション』で理解できた。
『大人たちも頑張っています』という藤山教諭の言葉や、ハイツで一緒に夕食をとった時の『ミドリさん』や志摩さんとの会話が、祐一の脳裏に蘇った。
「ご冗談を。たった数週間の付き合いのキツネ顔が一人、部活に入ったところで、どうってことありませんよ。こう見えて、この数日で色々ご縁も生まれてきたもんで」
滝川や池本、平家はこれで、自分に平田の事件を話したことなど忘れてしまうだろう。
でも、それでいい。
祐一は、自分のやり方で、自分にできることをした。
明日香や遥、優の心のケアは必要かもしれないが、出来ることはしたし、出来ればこれからも、『兄の友人』として、していこうと思っている。
「あら、頼もしいわね」
担任はにっこり笑うと、教室の前に立つ。
藤山同様、『自分の前に入れば遅刻にしない』というつもりらしい。
祐一がドアの引き戸に手を掛けると、担任は嬉しそうに微笑んだ。
「ねえ、藤井君。ホントは、子供たちが誘拐されたり、怪我をする様な事件が起こったのにこんなこと言っちゃいけないんだけど、聞いてくれる?」
「なんでしょう?」
「世の中には理不尽で、辛くて、大変な、今回みたいな出来事が一杯有るけれど、今回みたいに非道なことをする人間が捕まって、それをきっかけに平田君みたいな子がまた空手に打ち込めるような、そういう運動に改めて火がついたんだと思うと、『世の中って意外と捨てたもんじゃないな』って思わない?」
浮き立つ教諭の姿に何処か親近感を覚えながら、祐一は笑顔を返した。
そう、大人たちも、頑張っていた。
それが報われたときに嬉しいのには、大人も子供もないものだ。
平田に空手に戻って欲しいと願っていた全ての人が、そうあって欲しいと願ったことが、こういう結果を生んだのだ。
桑原のことは、ただのトリガーであり、イレギュラー。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一 作家名:辻原貴之