アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一
今度は三十秒待ったが、返事がない。
最後にもう一度鳴らし、一分間待つ。
(…留守か)
とはいえ、プリントをポストに入れただけでは既に祐一の気が済まない状況でも有る。
祐一は取り敢えずポストにプリントを入れると、そのまま玄関の手前にある門を開ける。
玄関まで数歩。
その間に特に異常はない。
(但し、この鍵は…)
掛かっている。
記憶が正しければ、大型工具があれば錠ごと破壊できるが、針金などでは片方が開けられてから数十秒以内にもう片方を開錠しないと、自動的に閉まる仕組みになっているものだ。
家の裏手に回ると、窓にはそれぞれシャッターが降りていて、鍵が掛かっていた。
(こっちだ)
祐一は指を吹いて乾かしてから、制服のベルトに仕込んで有る針金に手を伸ばす。
折り重ねて強化した後、鍵穴に突っ込む。
程なくして、鍵が開いた。
祐一は慎重に針金を外すと、制服のポケットから手袋を取り出した。
ソロソロと、特有の音を立てて、シャッターを開ける。
「!?」
中を見て、驚愕した。
室内に様々なものが散乱している。
包丁が、床に刺さっている。
TVはつけっぱなし。
流石にガスは止まっていたが、荒らされた跡が無数に残っていた。
間違いなく、何かが起こった跡だった。
「チッ」
思わず舌打ちすると、周囲を見回して誰も居ないことを確認し、雨どいに手を伸ばす。
そのままスルスルと登ると、ベランダの縁を掴んで二階に降り立った。
こちらも針金でシャッターを開け、そのまま中を覗く。
誰も居ない。
恐らく妹たちの部屋であろうその部屋は、二段ベッドと二組の机、その他色々なものが残されていたが、祐一が注目したのは、机の上にランドセルが残されていることだった。
間違いなく記憶にある、明日香と遥のものだ。
(鍵は、一重)
折り重ねていた針金を一番細い形の輪っかに変形させると、ゴムパッキンの隙間に突っ込んで、鍵に引っ掛ける。
それから引っ張ると、カチリと音を立てて鍵が開いた。
窓を開け、靴を抜いで部屋に入る。
音は立てないよう細心の注意を払いながら、家の中を総て見て回る。
LDK形式の一階リビング。
両親の寝室と、健の部屋、書斎に、物置になっている部屋が一つ。
何れも無人。
しかも、両親の寝室と健の部屋を中心に、荒らされるだけ荒らされていた。
母親のものと思われる宝石箱が乱暴に開けられて、中身だけ抜き取られている。
この分なら、通帳類も持ち去られているだろう。
(家の権利書は残っている)
…つまり、換金しやすいものに絞ったということだ。
祐一はシャッターを含めて総てを逆の手順で元に戻すと、誰も見ていないことを確認してから自転車に乗り、近くの公衆電話で『昇龍軒』に電話を入れる。
数コールも待たず電話に出た店主に『鍵が掛かっていてよく分からない』とだけ報告し、『どうしましょう』と念のため聞くと、店主は『また暫くしたら近所の誰かにお願いして見て貰う』と言うので、それはそちらに任せることにした。
『暫く』という店主のニュアンスは声の『色』で『大体二時間くらいのイメージ』だと分かった。
それならば、すぐに通報があっても二時間以上は稼げる。
『もう少し他人を信用してくれると、先生は嬉しいです』
藤山の言葉が脳裏を掠める。
(…大丈夫。俺は俺の信じるものを、ちゃんと知っていますよ、先生。)
平田を空手部に戻そうと躍起になる、池本や滝川の姿。
自らを情けなく思う、平田の愚痴。
仲間の力を集約して、祐一に託した平家の話。
アインシュタイン・ハイツで『ミドリさん』や志摩さんに聞いた商店街の話。
卒業生を見かけたと言って心配して店の外で祐一を待っていた『昇龍軒』の店主。
誰もが平田のことを心配して、動いていたというのに。
その一方で、平家に『まさか家族にまで手は出さないだろう』と言った自分の甘さ、放課後までノウノウと授業を受けてから平田の家へ向かった甘さは、付き合いの長さや深さだけでは測れない、『本気さ』が欠けていた証拠でも有る。
間違いなく悪い予感はしていたのに、『まさか日本で』と考えて着手を躊躇してしまった。してはいけないミスをしてしまったかも知れない。
とはいえ、今更起こったことは変えようがない。
祐一の思考は、『次』に向けて進み始めていた。
「面倒くせぇが。…約束、しちまったからな」
作品名:アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一 作家名:辻原貴之