アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一
大人の視点、子供の事情
翌朝、祐一は学校に来て、いつものように時間を過ごし、二日前のように自販機の前でキツネ顔の男を待っていた。
平家を始め、『エスカレーター組』改め『持ち上がり組』女子との約束に応えるためである。
が、待てども暮らせども、平田健は姿を現さなかった。
入れ違いになったのかと思い教室へ戻ってはみたものの、健の姿はない。
(携帯…は、持ってないことになってるんだった)
懐の携帯を取り出そうとして、慌ててやめる。
よくよく考えれば、それを理由に平田とのアドレス交換も断っている。
祐一が僅かに戸惑っていると、そこに教員センターから藤山教諭が出てきて、声を掛けてきた。
「藤井くん、一限目は現代文ですよ」
「あ、はい…」
出会って僅か数週間の教諭が自分のクラスと名前を一致させていることに戸惑いを覚えながらも、祐一は足を止めた教諭に答える。
「…平田くんでしたら、『今日はお休みする』と連絡があったそうです。医者に向かう途中だということでしたが、随分息も荒く、熱が有ると言っていたそうです」
藤山は穏やかに微笑みながら、祐一を促すように頷きながら腕を振る。
藤山の言葉に嘘はない。
そもそも伝聞なので信頼性は低いが、健がそのように連絡したのは事実らしい。
「…そうですか」
「良ければ、教室まで一緒に行きましょう。遅刻にはしませんから」
「はい」
藤山と並びながら、階段を登る。
暫しの沈黙の後、顔色ひとつ変えずに藤山が口を開いた。
「…藤井くん。池本くんや平家くんから、平田くんの話を聞かされているようですね」
「…よくご存知で」
「僕は、平田くんが事件を起こしたとき、担任だったんです。それに、こうして一緒に生活していると、君たちの動きが『少し普段と違う』だけで、分かるようになってくるものなんですよ。君のような来たばかりの子の動きはともかく、ずうっと一緒に生活をしている子たちの動きは特にね」
階段を登りながら、藤山はかつての記憶を反芻しているかのように頷いた。
何か重いものを秘めている『色』が祐一には『視え』た。
「何をどこまで聞いて、何を考えて、君が平田くんに肩入れしているのかまでは、まだ君との付き合いが浅い僕には分かりません。ですが、君が他の子達に何か重いものを託されてしまったのではないかと、少し心配しています。若い頃というのは、自分に出来ないことを早急に解決しようと張り切るあまり、得てして責任の重みまで他人に託してしまいがちなものですから」
「先生?」
「…藤井くん。君が何をさせられているのかは、聞きません。でも、大人もただ見ているだけではありませんよ。平田くんには平田くんのためになるように、君には君のためになるように、大人たちも頑張っています。中々全員までは目が届かないかも知れないけれど、大人たちも頑張っています」
藤山は、視線をはっきりと祐一に向け、優しく穏やかに微笑んだ。
祐一はそのあまりの正直さに、目を細める。
朝の光の反射だけでそう認識されるものなのか、何処かその光が眩しく感じられた。
「…藤井くん?」
「あぁ、いえ、何でもありません」
訝しげに問いかけた藤山に、答える。
『人として在るべき領域』というものが有るとすれば、藤山の誠実さはやや祐一の目には眩しすぎるらしい、とは、流石に言えない。
教室の前まで来た。
引き戸を開けようとする祐一に、藤山が一言、付け足した。
「藤井くん。君はそのままでも、そこから変わるとしても、魅力的な人間です。が、もう少し他人を信用してくれると、先生は嬉しいです」
「はい?」
「…いいえ。いくら君にでも、まだ、少し早かったですかね。さあ、授業にしましょう」
藤山は自分の性急さを感じたらしい『色』を放ちながら、小さく、何度も頷いた。
その日の夕方、祐一は地図を手に一人、自転車に乗っていた。
連絡物のプリントを、平田に届ける役を担うことになったのだ。
風邪でダウンしたらしい健は優を迎えには行けない筈だから、優の迎えは妹たちのどちらかがするのだろうと思い、優の顔でも見に行くかと幼稚舎まで足を伸ばしたが、先日優を教室まで連れてきた保育士の先生によると、健から『一家共々ダウンしたので今日は休む』と連絡があったそうだ。
微妙な違和感を覚えながら自転車を走らせていると、先日夕飯を共にした『昇龍軒』の前に差し掛かった。
店の前には一人、スキンヘッドの男が苛立ったようにつま先で地面を叩いている。
そして、祐一の姿を発見すると大きく手を振った。
「おぅい、藤井君だよな!!」
「!?」
祐一は自転車を止め、店主の前で降りる。
「こんにちは、どうしたんです?」
「あぁ、いや、気になることが有って、たけ坊の知り合いが誰か通りかかるのを待ってたんだ」
「誰か?」
「あぁ、君、昔たけ坊が空手やってて、去年やめたって話、知ってるか?」
「はぁ。どういう訳か一通り聞くハメにになりました」
祐一は思わず表情を隠した。
本当に、何でこんな事になったのだろう。
しかし、店主の方は祐一の様子に気を配っている余裕はないようだった。
「なら話は早い。去年の三年がこの辺りウロチョロしててな…。先刻揃って飯食って帰ったんだ。この辺じゃあいつらの代は態度悪いので有名だったから、商店街じゃ嫌われてたんだが…。何かたけ坊の事アレコレ話しててな。昨日は昨日で、たけ坊が急に入って来たと思ったら何も言わずに帰っていくし…。どうも気になるんでちょっと見に行きたいんだが、俺も店空けるわけにも行かないだろ?誰か見に行ってくれないかと思ってよ」
去年の三年生…。
平家の話によれば、推薦を取り消されたという先輩たちのことだ。
この辺りをうろついているという噂が有るということは平家からも聞かされていたが、何だか嫌な予感が積み重なっていく。そんな気がした。
「…今から行くところです。ついでに見てきますよ」
「おう、何でもなきゃそれに越した事ないけどな」
全く同意だ。
何もなければ、それに越したことはない。
だが、何かが祐一に警鐘を鳴らしているような気がする。
「お店に電話すればいいですかね?」
祐一は言いながら、平家に書いてもらった地図の余白に、店舗のドアに書かれている電話番号をメモして『昇龍軒』とマルで括る。
「おう、そうしてもらえると有り難いな」
「じゃあ、後で電話します」
「よろしくな」
祐一は店主に一礼すると、自転車にまたがる。
平家に教えてもらった平田の家は、ここから自転車で五分ほどだ。
祐一は少し強めに、ペダルを踏み始めた。
程なくして、祐一は平田家に到着した。
リフォームしたばかりと思われる、最近の形の家で、玄関のドアに鍵は二種類、電動キーレスとの兼用式の物がつけられている。
玄関前後の状況を見るに、カメラは玄関応対用の一基のみ。
セキュリティ関連の企業とは契約していないようだ。
ポストには今朝の新聞と夕刊の両方。
新聞を取っていないだけの可能性も有るが、それだけで悪い予感は膨れ上がった。
意を決してチャイムを鳴らす。
…
……
………
三秒…五秒…十五秒。
返事がないのを見て、再びチャイムを鳴らした。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一 作家名:辻原貴之