アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一
志摩は『アイン』とか『シュタイン』とか好き放題呼ばれているこの猫を『アイス』と呼んで親しんでいた。
「あ、管理人さん。管理人さんもいかがです?」
「いいん、ですか?」
祐一の問いに、『ミドリさん』もいつもの訥々とした口調で答える。
「えぇ、放っておけば余るものですし、出来ればワインを志摩さんと二人で片付けてもらいたいなぁ、と」
「…では…」
管理人さんはゆっくり頷くと、何故か一旦Uターンする。
「あ、管理人さん!?」
祐一が立ち去る背中に声を掛けるが、『ミドリさん』は振り返らない。
「あー、タバコじゃね?」
「うん、多分そうだよ。今の内に準備しちゃおう」
桜、虹とそんな事を会話していると、準備が終わる前に『ミドリさん』は戻ってきた。
食パン一斤を抱えて。
自前かよ、『ミドリさん』。
シチューの主食がパン派の人と、米派の人は日本の中では結構分かれるだろう。
古くからあるレストランなどでは、シチューを注文するときに未だに『パンか米か』と訊かれる場所もある。
因みに祐一は米派。
だが、世界では圧倒的にパンだろう。
常磐兄弟も志摩もその辺にこだわりはないのだろうが、志摩は米を選んでいた。一方で、双子たちはパンを手にとっている。
祐一はたまにはパンを、とも思ったのだが、目の前で『ミドリさん』の健啖ぶりを見せつけられると、『パンは朝食にもなるし、米はこのままだと朝食時にはカピカピになってるよな』と思い直し、結局米にした。
お陰で人間の方はなんとか形になって、程なく鍋も空になったのだが、こうなると獣の方が収まりがつかなくなる。
『あんた、わかってんの?アタシは恩人…いや、恩猫よ?』
とばかりに足元で喚くので、祐一は仕方なく米が余った時の為に残しておいた秘蔵の品を提供することにした。
「解ってるよ。お前、人間より好み煩いよな」
刺身の五点盛り合わせ。
五枚ずつ用意されている刺身から大根のケンとイカの刺身だけ取り除いてやり、足元のアインに提供する。
記憶の中では、猫にイカを与えると、消化が悪いのでお腹をこわすと聞いたことが有る。本人(本猫?)がどのように思おうと、用心しておいて悪いことはないだろう。同様に、濃い塩分もNGと聞いた記憶があるので、提供する刺身に醤油はかけない。
イカと大根のケンは捨てるのも勿体無いので、チョロッと醤油をかけて祐一が頂くことにした。
「ありがとう、ございます」
『ミドリさん』が代わって礼を言うので、祐一は手を振って切り返す。
「いえいえ、程よく収まりそうですし、余っても仕方ないので。しかし、平田に付き合ったばかりにしくじっちゃいました」
「平田?…そういや、藤井君は桜丘学園の一年だよね。だとすると平田って、平田健くんのことかな?」
志摩が、ほんのり赤みが差した顔で訊ねる。
「あぁ、そういう事ですか。有名人だったんでしょう?」
全国大会を制覇するほどの人間が地元から出れば、商店街は応援するだろう。
特に平田は『地元っ子』らしいので、町内会などで子供の頃から知っていれば尚更だ。
「なんか去年、一昨年は商店街に、バーンと横断幕張られてたねぇ『全国大会出場おめでとう』とか『連覇おめでとう』とか」
「えー、何々?」
「平田?」
「あぁ、俺のクラスメイト。知らなかったんだけど、空手のチャンピオンだったんだと」
桜と虹の言葉に適当に頷くと、祐一は残りの米を掻き込んだ。
「地元の子で、兄弟の仲もとてもいいので、商店街でも有名です。お兄さんは、あんなことになってしまいましたが」
『ミドリさん』が、寂しそうに、空になったシチューの皿に目を落とす。
『あんなこと?』
「不祥事起こして辞めたんだと」
桜と虹に説明しながら、『商店街でも有名』という話を聞いて、祐一は『昇龍軒』のことを思い出していた。
そういえば店主は、健のことを『たけ坊』と呼んでいた。
あの界隈では有名人というのは本当のことのようだ。
「ウチの店のおばさんがしてた話では、コーチのやりすぎ止めようとして、止めたまでは良かったものの、学校に処分されちゃったんでしょう?酷い話ですよね。悪いこと止めて何が悪いんだって」
すっかり空になったワインの瓶を恨めしそうに眺めながら、志摩もやりきれないように呟く。
「茶髪に染めたとき、染めた美容室の人が泣いていました。『決別』だと言ったそうです」
「店にもたまに来ますよ。糸目の、ちょっとチャラい感じの子ですよね。茶髪になったときはびっくりしたけど。弟さんと手を繋いで、店長や山井さ…その、さっきのおばさんとよく挨拶してます」
「藤井君は、彼と友達だったんですねぇ」
大人ふたりの視線が祐一に集まる。
「いや、俺がお二人に同情されるような話じゃないでしょう!?平田本人ならともかく」
「いやいや、そういう子とお友達になるのは、偉いなぁと思って。復帰するときは、力になってやってな」
「仲良く、してあげてくださいね」
二人は祐一の肩をポンポンと叩くと、頷き合う。
「えぇっ、何で同情的なの?酔ってるの、もしかして」
『…かもねぇ』
桜と虹の台詞が、またユニゾンした。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一 作家名:辻原貴之