アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一
平家あずさの思い
翌日のことだった。
その日は何事もなく、授業を受けていたのだが、四限目になるとチョンチョン、と背中を啄かれた。
今度は誰に回すのか、と思ってメモを受け取ってみると、またもや自分宛だった。
『お昼休み、屋上でお話しませんか 平家』
平家…後ろの席の女子だ。
自己紹介の時の印象だと『図書委員』か『美化委員』と言った感じの何処か実家の近くにいた昔なじみを思い出させる、素朴な印象の女の子だった。
そして、彼女もまた『エスカレーター組』の一人。
祐一は少し悩んでから『了解。購買でパンを買ってから行くので、少し遅れます』と書いて後ろに返す。
すると再び、背中を啄かれた。
『紅茶とサンドイッチで良ければ、多めに用意してきたから』
―――昼休み。
かくて、目の前には山のようなサンドイッチが並んでいた。
具体的に並んでいたのは、サンドイッチが数種類とフライドポテト、唐揚げにポテトサラダ、小口にコールスローも用意されている。
「藤井くん、いつも大量に食べてるでしょ?結構女子の間で話題になってるよ」
そうだったのか。
「流石に、このくらい有れば大丈夫だよね」
「ん、あぁ、多分」
『頂きます』と手をあわせて、お絞りで手を拭いてからハムサンドを手に取る。
「あ、旨い」
「そう?良かった。もしかしたら場所によってカラシが効きすぎてるかも知れないから、注意してね」
平家は微笑むと、紙コップに紅茶を注ぐ。
「何処でこんなものを…」
祐一が応じないとは考えなかったのだろうか。
「これはね、三時間目に藤井くん達が男子専修の選択授業受けてる時に、女子専修の家庭科で作ったのを集めたの。藤井くんがさっき食べたのは、アタシのところ」
「ぐっ、集めた?なにそれ。どういう事?」
「説得というか、お話というか…。『持ち上がり組』の女子皆で急遽決めたことなの、ちょっと、気になる噂を聞いたものだから、藤井くんの耳に入れておきたくて」
平家の言う『持ち上がり組』とは、昨日祐一が『エスカレーター組』と表現した連中のことだろう。
となると、祐一との接点は僅か一つだ。
「平田のことか?」
「…うん。やっぱり、分かるよね。昨日『持ち上がり組』の女子が、空手部の人たちと藤井くんが話してるの見たって言うんで…」
「どうでもいいですが、皆さん随分俺の事買ってますね。俺は自分がそんなに頼られる人間だとは思っても居ませんでしたよ?」
「平田くんのこと、どこまで聞いたの?」
「さてね。まぁ、大まかに言うと、不祥事を起こして空手部にいられなくなったって話は聞いたよ。滝川さんは、平田に戻ってきて欲しいらしいけれど、『事件のことは話せない』って言ってた。そんな事聞いて、わざわざ俺が首を突っ込みたがるとでも?」
「そうは思わないんだけど、どうしても諦めきれなくてね。平田くんはね…。ヒーロー、だったんだよ。強くて明るくて、優しくて。中学一年の二学期から編入してきたときにはもう、空手のチャンピオンだっていう話だったけど、全然そんな事、鼻にも掛けて無くて…。すぐに皆と仲良くなった。皆平田くんを応援してた。全国大会の時にはね、皆自費で応援に行ったんだよ」
「それは、俺と平田が仲良くする理由とは全く関係ないなぁ。強くなくても、明るくてバカでお節介なだけで、十分俺の手に余る」
「…そう言われると、それでも充分なんだけど」
「アンタ達も、平田に空手部に戻って欲しいクチなのか?」
「…うん。でも、それ以上に嫌な話があって」
「…嫌な話?」
「平田くんが空手をやめた理由、先輩たちから聞いてないんだよね?」
「あぁ」
「平田くんからも?」
「あぁ、敢えて聞いてない。俺には関係ないからね。別に、空手をしてようとしてまいと、平田は平田でいいじゃないか」
「でもね、空手をしている時の平田くんは、やっぱりカッコいいよ。普段あんなに優しくて明るい平田くんが、一生懸命に自分より大きな人に立ち向かっていくの、見てて感動するんだよ。皆、平田くんが空手しているところを見るの好きなんだよ」
平家の言葉に嘘はない。
祐一にはそれが『視える』。
彼女の中には平田に対する恋慕の情がないといえば嘘になるが、それ以上に頑張る平田に対する憧れの方が強いのも、『視て』いて分かる。
祐一は一つ、ため息を付いた。
ここはもう、聞かざるを得ないだろう。
「…で、俺に何を聞けって?」
「…聞いてくれるの?」
「聞かせるために呼んだんだろ。『嫌な噂』とやらを」
「あ、うん。…藤井くんは、桑原コーチのことは知らないんだよね」
「桑原コーチ…。平田が昨日妙なこと言いかけたんで止めた話に関係してそうだな」
「…さっきみたいに『俺には関係ない』とか言って止めたの?」
「まぁ、そんなところだ」
「…優しいんだね、藤井君は」
「そういう事じゃない。本当に関係ないだけだ」
吹き出しそうになって口元を抑えている平家をよそに、祐一は昨日のことを思い出す。
平田が、『自分が何をしたか』語りだそうとしたとき、祐一はそれを遮った。
聞いても平田が直面している問題は全く解決しないことが明らかだったからだ。
金の問題だと言うのなら、誰かを通じて理事に圧力をかければ済む可能性も有るが、起こってしまったことを変えることは出来ない。
それは『今後どうするか』には邪魔な材料の筈だった。
「桑原コーチはね。学園内では有名な『コーチ』だったんだよ。元は有名な選手だったらしいんだけど、引退してから学園のコーチに収まったの。それからウチの学園は全国大会とかに行くようになったから、徐々に有名になってきたんだけど。実は就任当初から、影で先輩たちに暴力を振るってたんだって」
「空手部で暴力って、一体どこから先が暴力なのかね?」
知りうる限り、一時期オリンピック競技にも採用されていた『型の部』を除けば空手は人と人が殴り合うスポーツだったと思う。
寸止めや顔面への打撃禁止など、流派によって細かいルールはありすぎるが、競技スポーツとしての空手は概ね顔面と急所への打撃禁止だったように記憶している。
だからといって、打撃が暴力でないかと言われると、その線引きは非常に曖昧だ。
元より、格闘技なのだから。
「…そう、そこが問題だったの。平田くんは当時から有名な選手だったから、或る時期を境に高校の練習に参加するようになってたんだけど…」
「そこでその暴力を行う現場を『目撃』した、と」
「すごい、何で分かるの!?」
やられたのは平田自身ではない。
それは当初から確信していた。
「あいつ自身がやられるなら平田は文句を言ったり、逆上するとは思えない。あいつはそういう性格じゃない」
「その時コーチに暴力を受けてたのは、ウチに転入してからお世話になった三年生の先輩…当時は二年生だね。桑原コーチが就任して以降、代々そういう『人身御供』がいたらしいの。気絶しても暴力を受けて、『滅茶苦茶だった』って現場を見た先輩は言ってた。当時は全国版のTVニュースや新聞にも出たんだけど、覚えてない?」
「いや、俺、その頃ちょっと海外にいたんで」
「そうなんだ。知らなかった、藤井くんは帰国子女なんだね」
作品名:アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一 作家名:辻原貴之