アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一
四限の半ばにそう考えていたところで、平田兄弟と席を交換した男子からこちらに向かって手紙が投げられてきた。
小学校や中学校の頃には良くある、『手紙の交換』という奴だ。
自分経由で何処かへ回すのかと思って宛名を確認したところ、紛れも無く祐一宛だった。
『昼休みに少し話がしたい。食堂で会えないか? 池本』
池本。
そうか、コイツそういう名前だったっけ。
現在の席順は五十音順なので、出席番号一番が『あ行の人間』なのは理解していたが、あまりにもどうでも良かったため理解していなかった。
自分で言うのも何だが、祐一は交友関係に関して割と淡白な性格なのかも知れない。
日頃からべったり傍にいるのは平田健ただ一人で、逆に言えば他に友人らしきものが出来たという意識も、実感もない。
まぁ、学校が始まってからそれ程長い時間が過ぎたわけでもないが、逆に、ほんの数日というわけでもない。
実際、平田の方には外部生中心だと解ったが、何人も友人がいるわけだし。
(アレ、もしかして、『エスカレーター組』中心に、距離を置かれてたってこと?)
それは、祐一が?
それとも、平田が?
或いは、両方が?
疑念を持ったときには、『お歌』の時間は終わって、優は『お昼寝』の時間に入っていた。
昼休み。
今日こそは食べると決めていたカレー(しつこいようだが、ハイツでの恨みを此処で晴らそうと言うことではない)のトレイを手に周囲を見回すと、こちらに向けて手を振る集団が有った。
池本翔平。
クラスメイトの一人と、後は誰だろう?
合わせて五名、十人掛けの一角を占領するように祐一を入れて六名もの人間が集まっている。
どいつもこいつも、ガタイがいい。
見るからになにか齧っている。
(…いや、一人は見覚えがあるな)
朝、平田健に声を掛けていた三年生だ。
「悪いな」
「いや、別に」
「席は取ってある。ココ」
「どうも」
祐一は勧められるまま、囲まれたど真ん中の席に陣取る。
早速口に入れた学食のカレーは、不味くはないのだが、やはり義務感を感じさせる味だった。
アナスタシアのカレーはどんな味だったのだろう。
まぁ、いつもの味はいつも同じ味だから意味があるんだけれど。
祐一が一人ため息をついていると、池本が、いや、周囲の視線が一斉に自分に集まっていた。
「…そういや、話がどうとか?」
「あぁ、それなんだけどさ…」
「時間をもらって済まない。俺は空手部副主将の、滝川という」
池本が明確に何かをいうよりも先に、今朝健に話しかけていた先輩が口を開く。
「はぁ、どうも。藤井です」
祐一が軽く会釈を返すと、滝川は頷いて先へと話を続ける。
「…平田の話なんだよ」
「まぁ、他に接点なさそうですね」
「池本の話だと、君は、高校からの外部生だそうだね。『平田健』と言うのがどんな奴なのか、どのくらい知っているんだい?」
「どんな奴なのか?」
キツネ野郎。
祐一の印象はそんな物だ。
茶髪で、糸目で、インナーのTシャツの色も殆ど黄色系。
挙句、携帯の色までシャンパンゴールド。
幼稚園児の弟がいる。
そこまで列挙したところで、『もういい』と滝川から制止が入った。
「平田健は、中学一年で全国空手大会の中学生部門を制し、それから三年間防衛した。全中大会のチャンピオンだ。空手の世界では、平田は専門誌以外にTVでも取り上げられたことの有る有名人なんだ。その辺りの話を、平田から聞いた事ないのかい?」
「…初耳ですね」
滝川は何かに焦っているようだった。
『何この人』と言う滝川への不信の目を池本に向けると、池本は無言で頭を下げる。
要するに、祐一は彼と話をさせられるために呼びつけられたわけだ。
「で、アイツが空手のチャンピオンなのと、俺と、何か関係があるんですか?」
「アイツは今、ちょっとした事情で空手から離れてる。だが、アイツが空手部に戻ってきてくれれば、と、俺達は考えているんだ」
「ちょっとした事情?」
「…それは、俺達の口からは言ってはいけない事になっている」
滝川はいい淀んで、僅かに俯く。
それだけで、概ね事情は理解出来るような気がした。
「…はいはい、不祥事ね」
周囲を囲む空手部らしき面々は顔色を変えて口を閉ざしたが、一方の祐一は納得してもいた。
先日こちらも『ちょっとした事情』で平田が回し蹴りのフォームをするのを見たが、アレはそれなりに堂に入っていた。
あれは、回し蹴りのフォームで蹴りたくて蹴ったのではなく、ムエタイ式のキックを意識しても、体に染み付いた空手の動きの所為で出来なかったのだ。
今でこそ、K-1などの競技や海外勢力の隆盛によって空手にもそこそこ多彩な蹴りが有るが、空手の歩法はムエタイのステップとは完全に異なることもあって、完全なムエタイ式のキックを使う空手家はほぼ存在しないと言ってもいい。
まぁ、交差法や捌きといわれるテクニックなどの存在が、空手にあのような極めて蹴り足に重心をかけるようなバランスを求めることが無かったのが主たる原因だろう。
閑話休題。
祐一の言葉に暫し声を失っていた空手部の面々だったが、やはり一番先に立ち直ったのは滝川だった。
「…だが、あくまで年度内の大会出場禁止で、この春からは大会への参加ができるんだ」
並々ならぬ決意が、特に『視よう』とせずとも明確に伝わってくる。
平田は中学から桜丘学園にいたという話なので、もしかしたら中学時代から随分と可愛がっていたのかも知れない。
「…それはつまり、俺に説得しろ、と言うことですか?」
「平たくいってしまうと、協力して欲しい。説得しろとまでは言わない。君から俺達の言葉に耳を傾けてくれるように言ってくれないか」
「…今朝の様子だと、話なんか聞きっこないと思いますけど」
取り付く島もない、とは正にあのことだった。
『色を視る』までもなく、明確な拒絶。
あの時の平田は、『その話題すら許さない』という空気を纏っていた。
「いや、お前の言うことなら、聞くかも知れないと俺は思ってるんだ」
祐一の言葉に答えたのは、池本だった。
「『あの事件』以来、高校に入るまで酷く口数が落ちて、必要なこと以外は殆ど会話すらしなかったアイツが、今、お前を始めとした外部生にだけは気を許してる。お前以外に頼める人が居ないんだ」
池本が祐一に期待を寄せる視線を向けてくる。
期待されても何も出やしないのだが。
「『あの事件』…あぁ、不祥事とやらね?」
「話すことは出来ないが、アレは健の責任じゃないんだ。一緒に練習に参加していた全員、ああなるまで何もしなかったOB、そこまで含めて、全部アイツが一人で…」
「おい、もうそれ以上は…」
他の三年生らしき人物が止めるまで、滝川が沈痛な面持ちでテーブルを見つめながら言った。
「…ふぅん、複雑なんですね」
言いながら、カレーを消費する。
祐一は燃費が悪い。
池本や滝川の話を聞きながらも、どんどんカレーを食べ進めていた。
「なぁ藤井、悪いが頼まれてくれないか。アイツは空手をやめるべきじゃないし、皆アイツが戻ってくるのを待ってるんだ」
池本の言葉を受けて、五人の視線が一気に祐一に集まる。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一 作家名:辻原貴之